わたしのいちばん
アイネクライネ後、お付き合いした二人のバレンタインのお話です。
二月十三日。まだ寒い日は続くけれど、ほんの少し、春の先触れを感じさせる日も出てきた頃。
明日はいわゆるバレンタインデーである。
好きな人に愛を伝える日。万人にとって特別な日、とは言わないが、少なくとも今年の菜乃花には特別な日だ。
「もうちょっとかなー」
甘い砂糖と、ほろ苦いカカオの香りが満ちるキッチン。菜乃花は上機嫌でオーブンの前に立ち、待ち遠しそうに中身を眺めていた。
オーブンの中身はガトーショコラ。チョコレートそのものの味が濃厚な、大人の味だ。
昨年まではチョコレートを溶かして好きな形に固め直したり、ココアパウダーを入れたクッキーを作ったりしていた。本格的なチョコレートケーキは初挑戦である。
難しそう、としり込みした菜乃花を、母の杏は笑って「案外簡単よ」と言い手伝ってくれた。
実際、一番大変だったのは板チョコを包丁で細かく砕くところで、他は分量通りに量って混ぜ、オーブンで焼くだけだ。
……来年は、クリフさえよければ一緒に作るのもいいかもしれない。そんな想像が心を膨らませる。
「喜んでくれるといいな、クリフくん」
そして何よりも、甘い香りとその期待に、自然と表情は笑顔になった。
焼き上がりまでははもうしばらくかかりそうなので、その間に、机の上のクッキングシートに並べたクッキーの様子を見る。
ガトーショコラと入れ替わりで焼きあがって、今は粗熱をとっているところだ。星型のクッキー型で抜いたスタンダードなクッキーである。
その中に、二つだけハート型で抜いたクッキーが混ざっている。それに目を止めて、また菜乃花をふんわりと笑みを浮かべた。
ガトーショコラとハート型のクッキーは、クリフのための特別仕様である。甘すぎないよう、ガトーショコラのチョコレートはビターチョコ多めのアレンジレシピ。その上に生クリームと、ハート型のクッキーを乗せる予定だった。
「特別仕様のクッキーは出来栄えばっちりね?」
「ひゃあ!?」
後ろから声をかけられて、菜乃花は思わず飛び上がりそうになった。
「お、お母さん」
「彼氏くん、わざわざ仕事帰りに時間作ってくれるんだって? 当日に渡せるみたいでよかったじゃない」
菜乃花の母、久方杏が、菜乃花の背後でにこにこと上機嫌に笑っていた。手元のトレイには、可愛くラッピングを施された星型のクッキーの袋が並んでいる。友チョコ代わりに渡すクッキーたちである。
「うん。チョコレート渡したいって連絡したら、当日会おうって言ってくれて。嬉しい」
そう言って、菜乃花は花が開くように心から笑う。その表情は幸せそうで、親の杏から見ても本当に可愛らしい。
「……そう。本当に良かった。大事にされてるみたいね」
思わず菜乃花の頭を撫でて、杏は安堵と少しの寂しさのこもった声でそう呟いた。
母親である杏の目から見ても、菜乃花はこの一年で随分大人びた。原因は受験と言う大きな壁のせいか、それとも娘に初めて出来た「彼氏」の存在のせいか。おそらく両方だろう。
今まで幸福に怯えていたような娘は、この一年、それに素直に向き合い、享受しようとしている気がした。
「それにしても菜乃花に彼氏かぁ。去年は、『今まで通りにお話ししたり、一緒にいられればそれでいい』とか、言ってたのにね?」
「そ、そんなの、なんで覚えてるの!? ……去年は、本当に、それだけでもいいって思ってたもん。でも、ちょっとずつ欲が出ちゃって……!」
明るく笑い声をあげる杏に、菜乃花は「からかわないでよぉ」と顔を真っ赤にしてだんだん声を小さくする。
嘘ではない。本当に、去年の今頃このキッチンでチョコレートを作っていたときは、今のままでもいいと思っていたのだ。クリフの傍で、クリフと一緒にいることが出来ればいいと。
「(本当だ。ちょっとずつわたし、前より欲張りになってる気がする)」
ダメだなあ、と心の中で呟いてから、菜乃花は熱い頬を思わず両手で包んで冷やす。
一緒にいられるだけでいい、という気持ちは、これからもずっと一緒にいたい、という気持ちに。そして丸一年をかけて、もう少し違う気持ちに変化を遂げていた。
龍巳クリフという男の子の、「いちばん」でいたい、という気持ち。「一等賞」の一番というよりは、「唯一」のいちばん、である。
最初の頃に比べたら、それはもう大変な欲張り加減である。菜乃花の中では特に。
「(でもこんなのしょうがないよ……!)」
……考えてもみてほしい。
お付き合いをする前は、クリフと二人きりでお出かけは一回きり。誕生日も、クリスマスも、バレンタインも「おめでとう」「メリークリスマス」とメッセージを送っておしまいか、友チョコを渡すくらいのことしかしていない。
だから、菜乃花は「クリフくんは、そういうことにはドライなほうなんだろうなあ」と、ぼんやりと思っていた。だからお付き合いをしたとしても、今までとやることはそう変わらないだろう、と思っていた。
菜乃花自身は青春小説や少女漫画のような展開に、多少……いやけっこう憧れがある。ぜひとも、「季節のイベントや誕生日を祝い合う恋人同士」というやつをやってみたい。
幸い、菜乃花は愛情表現自体は全く苦手意識はない。好きな人には好きだと何回でも伝えるべきだと思っているし、一緒にいられるうちにいる方がいいと思っている。
だから、クリフがもしもそう言ったことにドライだとしても問題はない。菜乃花のほうからいっぱい、クリフに愛情を──つまり、恋人らしいことをしていこう、と思っていたのである。
最初はおずおずと「誕生日には二人で会いたい」だとか「勉強を頑張ったから、クリスマスは一緒に過ごしたい」だとか願い出ていた。
……それが、実際のところはどうだ。
クリフはドライな対応どころか、菜乃花がそうしたいと言えば、当たり前のようにわざわざ時間を作ってくれる。
今までと変わらないどころか、誕生日のときは進んでプレゼントを選んでくれたし、クリスマスのときなんて、「自分も菜乃花に会いたかった」ときちんと言葉にしてくれた。それどころか、抱きしめ返してくれたりも──
「…………」
「菜乃花? 大丈夫? だいぶ顔が赤いけど」
「だ、だ、大丈夫。なんでもない」
思わず思い出して照れてしまった。首をぶんぶんと横に振って、菜乃花は煩悩を振り払う。
こんなの、「欲張るな」「期待をするな」と言うほうが難しい。
とはいえ、クリフも菜乃花の期待を汲んで頑張ってくれているのかもしれない。調子に乗って望みすぎるのは禁物だ。
杏は、真っ赤になったり真っ青になったりしている菜乃花を見て苦笑した。
「ごめんごめん。初々しくてついからかっちゃった。そんな顔しないのよ、菜乃花。別におかしなことじゃないんだから」
杏は菜乃花の頬を押さえる手をそっと外して、自身の手で包み込むように握りなおした。
「本当に好きで一緒にいる二人なら、お互いにちょっとずつ『こうしたいな』『ああしてみたいな』って欲が増えていくものよ」
「そう……かな?」
「そうなの。バレンタインデー当日にチョコが渡したい、なんて可愛い可愛い」
不安そうな菜乃花に、杏は力強く頷いた。
杏からしてみると、むしろどうして去年は「一緒にいられるだけで」などと言っていたのか、どう料理してやれば二人は美味しく出来上がるのか、などと物騒なことを考えていたくらいである。
杏はまだ噂の「彼氏くん」には出会ったことがない。だが、杏としては菜乃花の選んだ人なのだから、特に心配していない。
むしろ、この一年で菜乃花が素直に欲を出せるようになったことは、彼のおかげだろう。会ったこともない娘の彼氏に、杏はけっこう感謝している。
「大丈夫。美味しくできてるんだから、自信もって渡してきなさい」
菜乃花よりも自信満々な杏を見て、菜乃花は曖昧に笑って頷いた。
……いろんなことを願うことや、望むこと。自分が生きて、幸せになる未来を当たり前に想像すること。手放しでそれらを願うのは──正直なところ、まだ少しだけ怖い。
だが、怖くても大丈夫だと思えるようになった。それは、クリフも一緒にいてくれるからだ。一人ではなく二人だから。
菜乃花がクリフに会いたいように、クリフも菜乃花に会いたいと思ってくれている。菜乃花がクリフを好きなのと同じように、クリフだって菜乃花のことを好きでいてくれる。
「うん。そうだね、きっと大丈夫」
クリフの顔を思い浮かべて、もう一度、菜乃花は小さく頷いた。
***
浅めに、しかし確かに深呼吸を一つして、クリフは支部のドアをくぐった。
学生の頃はほぼ毎日顔を出していた支部も、社会人になってそれほど顔を出さなくなった。今日、わざわざ仕事帰りに訪れたのは、菜乃花との約束があるためだ。
二月十四日。バレンタインデー当日の夕方である。
廊下を歩きながら、待ち合わせ場所のロビーに向かう。期待感に少し足早になっている自分に気づいて、クリフは思わず苦笑した。
「(とはいえ、楽しみだからな)」
去年のバレンタインは、まだ菜乃花との気持ちが通じ合っていなかった頃になる。それでもあれだけ期待していたのだ。
それに比べ、今年はちゃんと「恋人同士」のバレンタインだ。多少期待が募るのは当然だろう。
数日前、菜乃花から「相談がある」と改まって電話が来たときは、この受験直前の時に何かあったのかと心配になった。
が、内容が「直前の模試でもA判定が出たから、バレンタインはチョコレートを手作りしていいか」という内容だったので、安堵で笑ってしまった。
「頑張ったな。チョコレート、楽しみにしてる」
「ありがとう! 嬉しい。わたし、頑張って作るね」
菜乃花はクリフの言葉に、心から嬉しそうにはしゃいでいた。
先のクリスマスの時もそうだったが、菜乃花が受験を控えつつも、クリフに心を割いてくれているのは素直に嬉しい。クリフに会うことを糧に頑張ってくれているのかと思うと、それも心が温かくなる。
バレンタインに至っては、菜乃花のほうがプレゼントを用意する側なのに、それを「ありがとう」と言ってくるあたり、菜乃花らしいというか。
支部のロビーに入る。この時間は訓練中なので、チルドレンたちの姿はない。菜乃花もまだ到着していないらしく、自分以外に人の姿は無かった。適当な椅子を引いて座って菜乃花を待つことにする。
「(ホワイトデーのお返し、考えておかないとな……)」
すでに一か月も先のことを考えているあたり、やはり相当浮足立っている。落ち着け、と他人事のように自分に言い聞かせ、小さく息を吐いた。
暇つぶしにスマートフォンを出し、画面を見つめる。それでどれくらい時間が経っただろう。
「クリフくん、ちょっといい?」
名前を呼ばれて、顔をあげた。一瞬菜乃花かと思ったが、声が違う。
そこには同じ支部の先輩が立っていた。訓練で何度か一緒になった顔見知りである。自分よりも数年先にチルドレンになった先輩で、菜乃花も一緒によくアドバイスや相談も受けてくれていた。
「お疲れ様。久しぶりだね」
「お久しぶりです」
「今日、クリフくんが久々に顔出すって支部長から聞いてたからさ。今少し時間いい?」
いいですけど、と答え、スマートフォンをしまう。礼儀として先輩と同じように椅子を立ち、目線を合わせた。
「はいこれ、ハッピーバレンタイン」
長い睫毛の乗った目を細め、彼女は綺麗に包装された箱を取り出した。クリフは思わず、え、と小さく声を漏らして固まってしまう。
……そうだ、バレンタインデーはそういう日だった。菜乃花以外の女性からチョコレートを貰う可能性だって、全くゼロではなかった。
不覚にも、クリフはこのとき初めて思い出した。バレンタインデーには友チョコもあれば義理チョコもある。実際、去年はクラスメイトなどからもチョコを貰っていた。中には本命かと疑うようなものも入っていた。
今年は就職したこともあり、会社で袋入りのチョコを貰うくらいのことはしたが、それを「バレンタインのチョコレート」と認識はしていなかった。
しかし、どうしてたった一年でそんなことが頭から抜け落ちていたのだろう。やはり自分は浮かれていたらしい、しかも思った以上に長期間。
果たして、これは断るべきなのだろうか。クリフは菜乃花の他にお付き合いの経験もないため、どうするべきかわかりかねた。
「クリフくん? どうかした? あ、これ色んな種類入ってるやつだから、苦手なのあったら好きなのだけつまんだらいいよ」
固まってしまったクリフを見て、先輩は不思議そうな顔をした。
「いや、その……」
そもそも「今年からお付き合いしている彼女が出来たのでチョコレートはお断り」というような発表や宣言みたいなものを、事前にすべきだったのだろうか。いや、しかしそんなことを聞かれてもいないのにするのはどうなのだろう、それは少し違う気もする。
どうしたものか、と考えながら、なんとなしに視線を逸らす。
「…………!」
そして、物陰でこちらを伺っている菜乃花と目が合った。思わず声を上げなかった自分を褒めたい。
「あっ! あの、えっと、お、お先にどうぞ……?」
一方の菜乃花はと言うと、しどろもどろになりながらも、なぜか二人の先を促すように手をこちらに押し出している。
いや、どうして彼女の菜乃花がそんな遠慮がちなのだ。浮気現場を見られたような形になっているが、全く違う。断じて違う。
「…………? ああ、菜乃花ちゃんか」
そうこうしているうちに、先輩のほうが菜乃花に気づいたようだった。彼女は菜乃花を見つけるなり笑顔になって、一旦菜乃花のほうに歩み寄る。
「菜乃花ちゃんお疲れ様。受験生なのに今日も来てるんだ、偉いね。受験の子は飛び飛びなこと多いのに」
「い、いえ、ぜんぜん……! 訓練も大事なので!」
「そっか。最近特別カリキュラム受けてるって言ってたね。無理しちゃだめだよ。なにかあったら、いつでも相談して」
「ありがとうございます、先輩。えっと……その、それで……」
菜乃花は何か言おうとしたが、言葉が続かなかったらしい。困ったように眉尻を下げて、先輩とクリフを交互に見た。
クリフも何か言うべきかと思ったが、なんと言えばいいのか皆目見当がつかない。
「あっ! 先輩、これどうぞ、バレンタインなので!」
そして菜乃花が思い切ったように、鞄の中から一つ袋を取り出した。透明な袋と青いリボンでラッピングされた、星型のクッキーだった。
友チョコ代わりなのだろう。去年も同じような形で、支部の友人に配っていた記憶がある。
……そっちに先に渡すのか、と一瞬思ってしまったのは心に秘めておく。
「毎年ありがとう、菜乃花ちゃん。今年のも可愛い」
先輩はぱっと顔を輝かせ、その袋を受け取った。クリフは認識していなかったが、菜乃花は去年も先輩に友チョコを贈ったらしい。
しばらく二人でお礼を言ったり世間話をしたりしていたが、やがて先輩のほうが何かに気づいたように目を見開いた。
「あ、ごめん、今日菜乃花ちゃん来ると思ってなかったから……悪いけどクリフくん、これ菜乃花ちゃんと二人で食べてもらっていい? 小さいのがいっぱい入ってるやつだから、半分こ出来ると思うし」
先輩はにっこりとクリフに笑いかけつつ、チョコレートの箱をあっさりとクリフに渡した。それから、菜乃花に向かって拝むように両手を合わせる。
「菜乃花ちゃん、今度訓練一緒になったら、別で飲み物でも驕るから許して」
申し訳なさそうに眉尻を下げる先輩に、菜乃花はどこかほっとしたような表情で微笑み、頷く。
……どうやら義理だったらしい。クリフも渡されたチョコレートの箱を見下ろして、気づかれないように安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます、先輩。一緒にいただきます」
「そうして。それじゃあ二人とも、またね」
先輩はまたしてもにこやかに二人に笑いかけると、そのまま軽く手を上げて会釈してロビーを出て行った。
『…………』
二人きりになったロビーで、しばらく茫然とその場に立ち尽くす。クリフは先輩から渡されたチョコレートの箱を片手に、そっと隣に立つ菜乃花を見やった。
その横顔は呆けたようにロビーの出口の方を見ていて、ほんのりと口元が半開きになっていた。きちんと手入れされた亜麻色の髪の隙間から、同じ色の睫毛が見える。
菜乃花の桜色の唇がやがて、「よかった」と小さく声の伴わない言葉を発した。その仕草にどきりとする。
思わず菜乃花のほうへ手を伸ばし、名前を呼びそうになったとき、菜乃花のほうが急にその場にしゃがみ込み、顔を覆って「ああぁ」と声にならない声を上げた。
「ダメだなあ、わたし」
「……どうした、急に。ダメって、何が」
菜乃花と同じようにしゃがみ、クリフはその顔を覗き込む。両手で覆われているので、表情は全く見えない。
菜乃花はしばらく迷うように、何も言わずそのままだった。菜乃花、とクリフがもう一度だけ名前を呼ぶと、菜乃花はゆっくり顔を上げる。
泣いていたらどうしようかと思ったが、菜乃花は困ったような顔をしているだけだった。
「クリフくんが先輩から……綺麗で大人の女の人からチョコレート貰ってたの見て、どうしようって──ちょっと、やだなって、思っちゃった」
戸惑いと、困惑と、狼狽と、それから申し訳なさをふんだんに混ぜたような声色だった。
「大丈夫だって思ってたのに、全然ダメだ。クリフくんはかっこいいし、強いし、優しいから……だから、バレンタインにわたし以外からチョコレート貰っても当たり前なのはわかってるの。だけど、どうしてもモヤモヤしちゃって……ごめんなさい」
言ってから、菜乃花は「ううう」とか細く呻いて顔を伏せる。
……クリフはてっきり、菜乃花以外の少女からチョコレートを貰ったことを少なからず責められるのだろうか、などと思っていた。それでもしょうがないとも思った。しかし菜乃花は逆に申し訳なさそうに縮こまっている。
クリフはそっと、菜乃花の頭に手を置いた。
「落ち着け。大丈夫だ。菜乃花は何も悪くない。むしろ悪かった、そんな気持ちにさせて」
「クリフくんは悪くないよ!」
菜乃花が慌てた様子で顔を上げ、ぶんぶんと首を横に振る。そのまま視線を合わせ、また申し訳なさそうに眉尻を下げた。
今日初めて、ちゃんと二人の視線が合った気がする。無意識に、クリフは目元を緩めた。
「……菜乃花が、俺と同じくらいの気持ちを抱えてくれてるなら。そういう気持ちを完全に無くすなんて、難しいと思うしな」
「そういう気持ちって……?」
「別のやつからチョコレート貰ってるところを見て、モヤモヤしたんだろ?」
「うん……」
好きな人に、自分のほうを見ていてほしいと思う気持ち。自分をいちばんにしてほしいという願い。友達とは違う「特別」の枠に誰かを入れて、またその誰かに、自分もその枠に入れてほしい、と思うこと。
つまりは「そういう気持ち」だ。
クリフは一瞬言葉の間を空けて、口を開く。
「だからそういう……やきもちとか、嫉妬心とか、そういうやつだよ」
普通の友達では足りない。もっと一緒に。もっと特別に。そうやって日ごと大きくなり、自分を、そして相手をも包み込みたくなる透明な欲。
……クリフくんはわたしのいちばんだから、わたしもクリフくんのいちばんになりたい。
そんな気持ちがふつふつと、菜乃花の中から音もなく湧いてきて、溢れそうになっている。一生けん命に蓋をするのだけれど、とどまるところを知らない。何といっても透明だから、とどめられるものでもない。
クリフはそんな菜乃花の気持ちを嬉しいと感じることはあっても、煩わしいだとか、まして我儘などとは思えない。
「そういうのは、こういう関係になったら多少当たり前というか……要は、お互い様なところもあるしな」
それは、恋人同士という関係性に進んだ二人にとってみれば、ごく自然なことだ。菜乃花だけでなく、クリフにとっても。
「……こんなこと思うの、我儘じゃない?」
「ああ」
おずおずと、まだ少し不安げに菜乃花は尋ねる。
「でもわたし、クリフくんのこと、どんどん独り占めしたくなっちゃってて……!」
「……付き合ってるんだから、お互いを優先するのは、普通だろ」
クリフは苦笑しながら、努めてなんでもないことのように答えた。
菜乃花が、自分の感情に戸惑っているのが一目見て分かったからだ。理性や自制、何より菜乃花の中に深く根付いたままの、頑固なまでの倫理観が、菜乃花の中で音を立てるようにせめぎ合っているのだろう。
「そうなんだ……わたし、好きになったのも、お付き合いするのも、クリフくんが初めてだから……何もかも全然わかんなくて」
菜乃花はようやく、ほっとしたような顔をした。そして、自分の頭を撫でるクリフの手に、そっと触れる。まだ少し冷えを残す菜乃花の手は、細く柔らかい。
「菜乃花はこう言う事に関しちゃ控えめなんだから、欲張るくらいで丁度いいんだよ」
クリフは、この手が「もっと」と望むなら、伸ばしてくれた方が安心するくらいだ。その対象が自分なら何も問題はない。
菜乃花はそんなクリフの前で「これが!? 控えめ!?」と衝撃を受けて声を上げていた。控えめだと思う、充分に。
「俺もほかの奴からチョコレートを貰う可能性について、全く考えてなかった。それであんな場面に鉢合わせて……本当に悪かった。菜乃花との約束のことしか、考えてなくて」
彼にしては歯切れ悪く、クリフが低い声で菜乃花に弁解する。菜乃花ははた、と動きを止めて、クリフの目を覗き込んだ。
「ずっと、考えてくれてたの?」
「そりゃ、考えるだろ。去年もそうだった」
菜乃花の薄い茶色の瞳が、「そうなの?」と言ってまんまるに見開かれる。それがあんまりにも可愛らしく、クリフは思わず苦笑して「そうだよ」と返した。
「わたしもおんなじだよ! 去年もずっと、クリフくんのこと考えてたの」
ぱっ、と菜乃花の表情が明るく笑顔になった。花が咲くような笑みと弾む声に、ようやくいつもの菜乃花に戻った気がする。
やはり、好きな相手には──菜乃花には、いつも笑顔でいてほしい。自分がいることで笑ってくれるなら、それが一番いい。
「菜乃花が、ほかのやつからチョコレートを貰ってほしくないっていうなら、来年からは菜乃花からの以外、全部断る。他にも何か、こうしてほしいってことがあれば言ってみればいい」
「えっ……で、でも、そんなの、私の我儘になっちゃうよ」
また怖気づいたように後ずさる菜乃花に、クリフはため息をついた。本当に、この少女は欲を出すのが苦手過ぎる。
「だからこんなのは我儘じゃないって。それに俺が、そうしたいんだ」
少し強めに言わないと、彼女は踏ん切りがつかないかもしれない。そう思って重ねて言い切った。
確かに、人からのプレゼントを断ることで、ある程度礼を失することになる。だが菜乃花が不安になったり、傷ついたりしないなら、そうする方がいい。
菜乃花は、クリフにとって他の人とは違う。特別な女の子なのだから。
菜乃花にとって、クリフが特別な男の子であるのと、同じように。
「……クリフくん」
菜乃花は頬をうっすら赤く染めて、呆けたようにしばらくクリフの顔を見ていた。そして、思い出したように手にした鞄から、最後の包を取り出す。
色違いのリボンと、ひとつだけハートに焼かれたクッキー。それとは別に分けられた、ケーキ箱に入ったガトーショコラ。クリフだけの特別なチョコレート。
「これ、チョコレート。いつも、本当にありがとう。……大好き」
それを小さな掌でそっと支えて、はにかむような笑顔と一緒に差し出した。最後の「好き」は、いつもの元気いっぱいなものではなく、ほんの少し照れたような、嬉しそうな声色だった。
「……ああ。ありがとう」
普段よりも穏やかで、ほんのりとした笑み。しかしその分、真に迫った菜乃花の心が伝わってきて、クリフの顔が熱くなる。
赤面したりしてないだろうか、と内心焦りつつ、なんとか平静を保ちつつ、チョコレートを受け取る。
「あのね、クリフくん」
それとほぼ同時、菜乃花がクリフの隣に駆け寄って、そっとつま先立ちした。クリフの耳元に口を寄せる──耳打ちの仕草。
クリフが意図を察して屈んでやると、菜乃花は声を顰めてこう話した。
「……来年。ハートのチョコ以外だったら、貰ってもいいよ」
でも、ハートのは、いちばん好きな人からだけもらって欲しいな。
……クリフくんのいちばんに、わたしを置いてくれればそれでいい、と。菜乃花は満足そうに笑った。
「……わかった。そうする」
耳元をくすぐる、愛しい少女の甘い言葉。手元には、そんな彼女が心を込めて作ったチョコレート。
なんとか平静を保って返した自分自身を、クリフは目一杯褒めてやりたい気持ちだった。
「菜乃花」
「なあに?」
「受験、頑張れよ」
脈絡のない話題に、菜乃花は一瞬頭の上に「?」マークを浮かべる。
しかし結局その意図を把握することなく、素直に「うん、頑張るね」と答えるのだった。