久方菜乃花関連,  テキスト

間章【過去の煌めき】

久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」

 クリフと菜乃花、二人が出ていくのを見送った後。椿は大きく息を吐き、先ほどまで菜乃花が座っていた椅子に腰かけた。

 「……思っていた以上に不安定だったみたいね、久方さん。大事になる前でよかった」
 「そうだな。でも、龍巳に任せておけば大丈夫だろ。聞いてはいたが、想像よりいいコンビだな。ちょっと肩の荷が軽くなった」
 「そんなこと言っても、サボらせないからね」
 「へいへい」

 椿にじろり、と睨まれた気配を感じて、隼人は乾いた笑いを漏らす。
 先ほど二人が出て行ったドアは閉められ、もう靴音も遠ざかって聞こえない。

 「(現実改変能力者か……これも縁かな)」
 隼人はつい先ほど、菜乃花に告げた「能力」のことを思い返す。

 現実改変のエフェクト。現実を思うままに改変出来る能力。あるいは、「改変してしまう」能力とも言ってもいい。
 先ほどは「可能性の話」として菜乃花に説明したが、久方菜乃花が現実改変能力を持ったオルクスシンドロームであることは、そこそこに信憑性の高い話だ。
 それを彼女に「告知」しないのは、ひとえに彼女自身の、そしてクリフのためでもある。

 「……完全に現実改変能力が発現したオーヴァードに、UGNが提示できる道は多くない。完全な忘却か、徹底した管理か。一番良いところで、何か有効で妥当性のあるストッパーを付けたうえで、自身による制御を期待するか」
 椿は少し俯いて、沈んだ声でぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
 効果範囲が広く、暴走した際の隠蔽が難しく、また制御も難しい。三拍子がそろっている現実改変能力者は、総じて危険な存在だ。
 「じゃなきゃ、責任も日常も何もかも放り出して、欲のままに能力振るうか、か。それこそFHに行くことになるだろうが」
 逆に言えば、FHにとってみれば非常に有用性が高い能力だ。彼らは能力の隠蔽を考える必要がないし、能力の強さと希少性がそのまま地位に直結する。

 「……久方さんが『そっち』に行くことはないでしょうね。前回の事件のとき、自分の命を盾に取られても、マスターマインドをあれだけはっきりと拒絶したんだもの」

 龍巳クリフがジャーム化しかかった、あの事件。椿の記憶にも、白い病室ではっきりと拒絶を口にした菜乃花の姿は新しい。
 久方菜乃花の倫理観ときたら、真面目を通り越して頑なだ。龍巳クリフも負けないくらいには実直なので、二人して似た者同士なのだろう。

 だが、龍巳クリフはともかく、久方菜乃花の思想には、強い正義感と倫理観の他にも、妙な『こだわり』があると椿は思っていた。
 彼女は基本的に天真爛漫で前向き、素直で優しい女の子だ。だが、自分の生き方、欲の持ち方にある一定の『線』を引き、そこから絶対に出ないように、と自分を律しているように思えてならない。その『線』の上に立った瞬間、彼女は「そこから先はわたしが望んではならない」と立ち止まるのだ。
 彼女はその『線』を盲目的に信じていて、その領分を越えてしまうようなとき、酷く自罰的になる。
 ひょっとすると、菜乃花の引いている『線』が世界にとって妥当性の高いもの──「正しいもの」であるから、結果的に彼女の【現実改変】能力は制御されているのかもしれない。

 ……隼人も前回の事件記録には目を通している。苦笑しながら頷いていた。
 「だろうな。まあ、万が一FHに行くなんてことになったら、UGNだって黙ってはいられない。その瞬間、久方は保護・管理対象から『処分』対象に変わる。最悪のパターンだ。だからこそ、これから気をつけなきゃならないのは、あいつらの『外側』から要らない茶々が入ることだ。何より、これ以上不安定にさせたら危ない。本当に【現実改変】能力者なら、無意識でだって暴走する可能性はあるんだ」
 それこそ息をするように。本当に暴走が始まれば、「ああなったらいい」「こうなればいい」と、現実改変能力者の思うまま、空に絵を描くように現実は変わる。それを、二人は経験として知っているのだ。
 「そうね。……あなたが落谷奈落花の話をしなかったのも、そういう気遣いの結果?」
 椿の質問に、隼人は小さくため息をついて首を横に振る。
 「それもあるけど。一番は、しなくていいと思ったから、だ。あの様子からして、久方は自分で調べてるか、本人から話を聞いてるだろ」
 隼人はそこで短く言葉を切ってから、目を細めて過去を振り返る。
 思い出すのは、自分の幼馴染だった少女のことだ。隼人が非日常の世界に足を踏み入れたことが発端となり、隼人と彼女の運命は決定的に分かたれてしまった。
 自分はもう二度と彼女に会うことはない。彼女もまた、隼人のことを認識することは出来なくなった。
 それが隼人とUGNが下した、彼女を守るための手段だったからだ。
 ……幼馴染もまた、現実改変能力者だった。あの喪失、あの断絶を、あの二人には味わわせたくない。
 今回、無理を言って日本支部へ戻って来たのも、その気持ちに突き動かされたことは否定できない。
 「今を生きてる人間は、誰も過去には敵わない。最強カードってやつだ。そんなのに思い悩んでてもしょうがないんだよ」
 いくら愛おしく、手放しがたいものでも。終わったこと、過ぎたことは覆らない。一度喪われたものは、たとえ取り戻したとしても、まったく元の形には戻らない。
 だからこそ、喪失というものは恐ろしい。そして「過去」というものはいつも正しく、美しく見えるものなのかもしれない。ときに、現在や、未来よりも色鮮やかに、魅力的に。どんな手を使ってでも寄り添っていたい、と願わずにはいられない幸福な幻。
 例えば龍巳クリフにとっての落谷奈落花がそうであるかもしれないし。久方菜乃花にとっての「別の世界の自分」とやらがそうなのかもしれない。
 「……そうかもね」
 椿も隼人が何を考えているのかわかっているのだろう。目線を逸らし、沈んだ声で相槌を打つ。隼人はそんな椿の顔をじっと見つめてから、苦笑した。
 まったく、この相棒はいつまでたっても頭に大がつくほどの真面目で、自分のことは鈍感なくせに、他人の心配ばかりだ。
 「逆に、生きて傍にいる人間にしか出来ないこともある」
 隼人はそう言うと立ち上がり、椿を促すように視線を寄越してにやりと笑った。椿は半ば呆れて、半ば感心したように笑って、同じように立ち上がった。
 「隼人が言うと、説得力があるわね」
 「そうだろ?」
 「でも、自分で言わないの」
 人懐こく笑った相棒の頭を、椿は軽く叩いてやった。
 高崎隼人──かつて、幼馴染を守るため。自らの過去を自分の手で「殺してみせた」彼は、不満そうに口を尖らせている。椿はその、いつまでたっても幼さの抜けない表情に思わず笑ってしまう。
 今このときは、自分が彼を守るのだ。以前、彼が守ってくれた、今も守っているこの世界ごと。その中には、きっとあの後輩たちも含まれているはずだ。

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