彼氏のお役目
現在執筆中のアイネクライネより少し未来の話。
クリフくんとお付き合いしている菜乃花のお話です。
「ね、クリフくん。今度のお休みって、時間ある?」
そんなふうに菜乃花が尋ねたのは、春も深まり、夏が近づいた頃のことだった。
今日は二人とも支部への報告事項があり、それを済ませた帰り、せっかくなのでお茶をしてから、ということになったのだ。
「ああ。土日なら空いてる」
「もしよかったら、お買い物に付き合ってもらってもいいかな」
「いいぞ。せっかくだし、飯も行くか」
「わあ、いいの? じゃあ、駅前のおっきいショッピングモール行きたい」
菜乃花は身を乗り出し、目を輝かせて喜んでいた。クリフはそのはしゃぎようを微笑ましく思いつつ苦笑する。
付き合い始めて数ヶ月が経ったが、未だに菜乃花は二人で出かけたり、何かするたびにこんな調子だ。全力で喜び、幸せでたまらない、と言う反応を返してくる。
「わかった。詳しい時間とかはメッセージでやり取りするか」
「うん! ありがとう、クリフくん、大好き!」
ごくごく自然にそう言われて、思わずクリフは面食らい、菜乃花から視線を少し外した。
以前から菜乃花の感情表現はストレートだが、彼氏、と言う立場になるとますますその威力を増している気がする。
「(いや、感情表現っていうか……そうか、これは愛情表現、っていうべきか)」
大好き、好き、手を繋ぎたい、などの恋人らしい所作を、菜乃花はなんの抵抗もなく要求してくる。
それらは二人が心を通わせたからこそ、クリフに向かって真っ直ぐに向けられる「愛情」として注がれる感情だ。
クリフは年相応にまだ照れがあるが、菜乃花はその辺り、あまり感じていないようである。
「だって、言えるときに言っておかなきゃ」
いつだったか、そんなふうに笑っていた菜乃花のことを思い出す。その笑顔がまだほんの少し寂しくて、クリフは何も言えなかった。
「……ああ。俺も、楽しみにしてる」
だから、逸らした視線を菜乃花に戻して、クリフもそう答えた。頬が少し熱い気がするが、きっと赤くはなっていないはずだ。
それだけで、菜乃花はまた花が綻ぶように笑う。
照れや戸惑いはあっても、菜乃花からの愛情を向けられるのが嬉しくないはずがない。だから目を逸らさずに、少しずつ慣れていけばいい。
いつでも好きなだけ、彼女が伝えたい言葉をかけられるように。
そして自分も、彼女に伝えたい言葉をかけられるように。
それが、いわゆる彼氏の役目、というものだ。
……だが、これは完全に予想外だった。
時間は進んで週末の休日。場所は大勢の買い物客で賑わう大型ショッピングモール。
「……菜乃花」
菜乃花が「ここに行きたい」と言った店舗の前までやってきてから、クリフはなんとも言えない緊張のようなものを感じながら、菜乃花の名前を呼ぶ。
「なあに? クリフくん」
対する菜乃花は相変わらずご機嫌な様子で顔を上げ、クリフの方を見た。
「今日の買い物って、何を買うための……」
「水着だよ?」
「なんでだ!?」
「え、え、だって、みんなが今度の訓練で要るって言ってたから」
「訓練!? 何の!?」
訓練、と言えばまずUGNでの訓練だろうが、水着が必要な訓練などクリフは把握していない。
菜乃花は頬の辺りに人差し指を添えて、自分の記憶に思いを馳せている。
「今度、野外訓練? っていうのがあるらしくて。場所はね、海の近くでやるんだって。そこもUGNの敷地内だから、自由時間は泳いでもいいみたい。だから、みんな水着持って行くって言ってたよ」
「なるほど、そういう……」
クリフは一応納得して息を吐いた。
言われてみれば、確かに野外訓練の日程は発表されていたし、海が近い地域だったような気もする。
だが、クリフは自由時間の過ごし方など気に留めていなかったので、泳ぐだとか水着が必要な可能性は考えていなかった。
そもそも、日程が長くなりがちな野外訓練は自由参加制だ。社会人になって他の仕事も割り振られるようになったので、参加するという考え自体を頭の外に置いていた。
「わたし、水着持ってないから、訓練までに買っておかなきゃって思って」
菜乃花は中学生まで心臓の持病の治療のために入院生活を送っていた。当然、心臓に負担がかかるため、学校で水泳の授業など受けたこともなければ、海で泳いだことさえないだろう。
高校になると、水泳の授業自体を行わない学校もある。
初めての水着、初めての海水浴に向けて、菜乃花のテンションはぐんぐん上がっているに違いない。
「せっかくだから可愛いのがいいなぁ。ここならいっぱい種類もあるし、良いのがありそう! 付き合ってくれてありがとう、クリフくん!」
「それはいいけど……こういうの、俺が一緒にいていいもんなのか?」
「どうして? 一人で選ぶより誰かと一緒の方が楽しいし、それがクリフくんならもっと楽しいかなって思って」
「…………あぁ、うん、なるほど……」
菜乃花の言い分は間違ってはいない、いないのだが、世間ずれしなさすぎていて、どうしたものかクリフにはわからない。
「(他のやつを誘って買いにこられるよりは、俺に声がかかっただけよかった、と考えるべきか)」
クリフはなんとか自分を納得させる言い訳を頭の中に並べ終わった。もう一つため息をつき、頭を掻く。
「ねえねえ! クリフくんはどっちがいいと思う? こっちのオレンジ? ピンクも可愛いよね」
菜乃花はクリフの考えなどつゆ知らずで、色とりどりの水着を手にしては、はしゃいだ様子で話しかけてくる。
つまり、クリフにその水着を着た菜乃花を想像して、面と向かって感想を言え、ということなのだろうか。またとんでもないことを言う。
……こんな状況も乗りこなさなければならないとは、彼氏とは思ったよりも試練の多い役目だ。
しかし、片思いで恋煩っていた頃に比べれば、ずいぶん贅沢な悩みかもしれない。
これはこれで、恋人同士だからこそ、胸を張って隣にいられる案件だろう。片思いのままの関係なら、さすがに目的を把握した時点で気まずくなる。
「あ、試着もしないとだね。……わー、こんなのもあるんだ。どうやって着るんだろうこれ」
「菜乃花」
しかし、菜乃花の手が明らかに布面積の少ない水着に伸びた瞬間、ぱしっ、とクリフは菜乃花の手を掴んで止めた。
菜乃花はクリフに掴まれた手を不思議そうに見てから、可愛らしく首を傾げる。
想像しなくてもわかる。そのデザインはあまりに危険だ。たぶん、自分も菜乃花も。
「なあに?」
「色々選ぶのはいい。けど、形はさっきのワンピースのやつにしとけ」
「そう? いいけど、どうして?」
「………………あんまり日に焼けると、後で痛いぞ」
我ながら本音━━あまりにも刺激的なデザインの水着を選ばせると、色々心配でこちらがもたない━━を上手く隠した言い訳が言えたと思う。
菜乃花はクリフの顔を数秒「ぽかん」としたように見ていたが、やがて感心したように頷いた。
「そっか! そうだよね、海だもんね! 日焼けするんだ! そっかぁ、そういうのも考えなくちゃ。あ、それじゃあ日焼け止めも買わないと。ありがとうクリフくん!」
心底納得したらしい菜乃花は、今手に取った布面積の少ない水着を戻すと、ワンピースタイプの水着の方へと素直に歩いて行った。
クリフは大きく、深いため息をついて、片手で顔を覆う。
……本当に、彼氏の役目というのは多岐に渡り、なかなか大変なものらしい。