1章【寂寞の名前】
久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」
結局、信号トラブルによる電車遅延と運転取りやめは、昼過ぎまで続いた。
あのまま神社の近くで昼食を済ませ、二人でぶらぶらと元旦の街を見て回る。元旦ということもあり、初詣に多くの人が訪れるような神社の周りでは、露店やお土産物の店が賑わっていた。
ゆっくりと、クリフと二人で過ごしたのは、思えばけっこう久しぶりだった。それこそ、クリフに誘われて休日に遊びに出かけた、あの「デート」以来かもしれない。
二人でいろいろな店先を見て、時折中に入って、両親へのお土産を買う。
いつもとは違う、元旦というハレの雰囲気。それに流されて、レストランで感じたあの言い知れない寂しさは、ゆっくりと薄れていった。
……クリフがずっと他愛ない話に相槌を打ち、傍にいてくれたからだと思う。理由のわからない寂しさは、現在の絆の温かさに紛れてゆっくりと溶けていく。
「……そろそろ帰るか。電車、途中までなら動いてるみたいだ」
だから、そうクリフが言ったとき、ほんの少しだけ残念だった。けれど、いつまでも一緒にはいられない。菜乃花は素直に頷いた。
電車は、菜乃花の家がある最寄り駅の一つ前の駅まで動いていた。二人で降りて、駅からの道を歩き出す。
「けっこう遠回りだな……疲れてないか?」
「大丈夫だよ。ありがと」
クリフは視線だけを菜乃花のほうに向けて、そう尋ねてくれる。クリフの半歩ほど後ろを歩きながら、菜乃花は笑顔を浮かべてそう答えた。
そうか、とクリフが短く答えて菜乃花から視線を外す。代わりに菜乃花は斜め後ろから、そんなクリフの横顔をこっそりと見上げた。
夕暮れの紅に、うっすらと染まったクリフの横顔。なぜか、ずっと見つめていたくなる。だから遠回りでも悪くはない。だって、もう少しだけクリフと一緒にいられる。
「(……何、話そうかな)」
せっかく、もう少しだけ一緒なのに。いつもなら、何も考えなくても言葉が出てくる。なのに、今日はなんだかおかしい。菜乃花は心の中で、自分に向かって首を傾げた。
……言葉を全部、どこかへ落としてしまったみたいだ。何を話せばいいのか、言葉がいっこうに見つからない。
会話が続かなければ気まずいと思ってしまうものだが、しかし、この沈黙は心地がよかった。
ただクリフの隣にいられるだけで。隣にクリフの気配を感じられるだけで、自然に嬉しい気持ちが湧いてくる。
そうして二人で歩を進めていると、突然ぱっ、と視界が広がった。
なんだろう、と思い菜乃花が視線を上げると、鮮やかなオレンジ色が視界を覆う。
「わあ」
そして次の瞬間、菜乃花は感嘆の声を上げる。途端に、ほわ、と口元から白い靄が浮かび上がった。
──気が付けば、二人は町中を抜け、河川敷に差し掛かっていたらしい。ゆったりとカーブを描く河と、その上にかかる橋が一望できる。
澄んだ冬の空気と、遠くに見える、何かの群れのようなビル。そしてそのビル群の奥の方へ、ゆっくりと夕日が沈んでいく光景。
「綺麗……」
視界いっぱいに、優しく、鮮やかな紅がキラキラと川面に反射している。その景色に目を奪われながら、菜乃花はそう零した。
クリフの髪の色と同じ色だ。そういえば、クリフと知り合ったばかりの頃、クリフのことを寂しい夕日のような男の子だ、と思っていたことを思い出す。
赤い髪と、整った顔立ちと。そして、菜乃花からたった二つ年上なだけだとは思えないほど、大人びた仕草と視線。
本当は温かくて優しいのに、いつもどこか、ここではない遠くを見ている。ここには無いもの、あるいは、もう失くなってしまったものを探しているような。
菜乃花はひそかに、クリフのほうへ視線を動かす。彼もまた、菜乃花と同じく夕暮れの景色をじっと見つめていた。
……出会った頃に比べて、クリフの寂しさは、今はいくらか薄れているような気がした。菜乃花の気のせいかもしれないが、いつの頃からか、クリフは笑ってくれるようになり、少しずつ優しくなっていった気がする。
まだ、菜乃花にはクリフの「寂しさ」が何だったか、ちゃんと理解はできていない。けれど、いくらか薄れたのならいいなと思う。
「いいところだね、クリフくん」
「……そうだな。久しぶりに来たけど、ここ、俺も気に入ってるんだ」
「そうなの? 来たことあるんだ?」
ちょっと意外で、菜乃花は目を瞬いた。「まあな」とクリフは軽い相槌を打ち、また夕日を見つめる。
「この前、霧谷さんからも聞いただろ。……俺に幼馴染がいたって話」
小さく開いたクリフの口から、その言葉が出たとき。菜乃花の心臓が、菜乃花自身にも意外なほど、高鳴ったのがわかった。
「……うん。聞いた。ごめんね」
反射的に、心臓のあたりを押さえるように、両手を重ねる。
こんなことをしたって心臓の鼓動が聞こえたりはしないのに、それでも、動揺したことを万に一つもクリフに悟られたくなかったのだ。
「なんで謝るんだ?」
「だって、そういう話、人から聞かれるの嫌かもしれないなって、思ったから」
「そんな気ぃ遣わなくていい。でもいつか、菜乃花には話そうと思ってた。自分で話せるならそれに越したことはないしな」
幸い、クリフは不審そうな顔をすることなく、菜乃花のほうを見てただ微笑んでくれた。少しだけほっと胸を撫でおろす。
同時に、クリフが今、そんな優しい顔で微笑んでくれていることにも安堵する。
……これから始まるのは、きっと、この夕日のように温かくて、でも寂しい思い出の話だから。
それを話そうとするクリフが、痛みに満ちた顔をしていなくてよかった。菜乃花はそう思う。
「落谷奈落花って名前の幼馴染で、よくここに二人で来てた。俺もそうだけど、あいつもチルドレンだったからな。色々ここで話したよ」
──落谷奈落花。ならかちゃん。
菜乃花は声には出さず、口の中でその名前を繰り返した。
ちょっと、自分と名前が似ているな、と思ったが、なんとなく口には出せなかった。似ているから何が言いにくいのか、菜乃花自身にもよくわからない。
「どんなこと、お話したの?」
「本当に色々だよ。昔のことも、これからのことも……約束も」
約束、と、菜乃花はクリフの言葉を小さく繰り返す。クリフは視線を夕日に向けたまま、懐かしそうに目を細めていた。
「まあ、UGNチルドレンとしてどんなふうになりたいとか、なろうとか。そういう、決意表明みたいな話だったな」
「そうなんだ……」
そう相槌を打ったものの、菜乃花のその声には張りがない。ただ、クリフの横顔に見惚れて、それ以上何も続けられなかった。
冬の日の、澄んだ陽光。淡い光に照らされたクリフは、菜乃花の知らない顔をしている。
それが菜乃花には眩しくて、そして──酷く寂しかった。
どうしてこんなに寂しいのだろう。クリフは優しい顔をしていて、間違いなく彼の中の、大切な記憶について話してくれているのに。こんな気持ちになってはいけないのに。
「クリフくんは……今も、奈落花ちゃんとの約束、守ってるんだね」
ぽつり、と菜乃花は口を開いて言う。この寂しさを感じていることへの後ろめたさから、少しでも目を逸らしたかった。
やはり、クリフは菜乃花の様子には気づいていない。やはり優しい笑みを少しだけ浮かべてから、小さく頷いた。
「そうだな。守れてるといい。そうしたらきっと、今度こそ、大事な奴らを守り通せる気がする。……喪わずに、喪わせずに済むと思う」
それは約束であり、願いであり、クリフの希望なのだ、と菜乃花は思った。
もう誰も喪いたくない。そして、誰にも喪わせない。喪う痛みを味わわせない。
クリフが強く在るための原動力。信念。オーヴァードとして生きていくために、最も頼みにする支柱。
ああ、と。菜乃花の中で、すとん、と何かが腑に落ちた気がした。
「……クリフくんの、大事な人なんだね」
大事な人だったんだね、と、過去形にして言う気にはなれず、菜乃花はそう言った。
「ああ、そうだな。これまでもそうだし、これからもそうだ」
そう答えるクリフの声は、優しい。
まるで、宝石箱の中にしまっておかれた、大切な宝物を見せてもらったような気持ちがする。誰にでも見せてくれるわけじゃない。確かな信頼と親愛があってこそ、見せてくれた、クリフの一番奥にある宝物だ。
菜乃花はそれを見せてもらえたことが誇らしい。しかし同時に、ずきずきと、胸が痛かった。
その痛みは、不意にあんまりにも美しいものを目の当たりにしてしまったときの、感動や感傷によく似ている。
「(ずっと知りたかった。どうしてクリフくんがあんなに寂しそうだったのか)」
菜乃花がクリフと出会った頃、クリフはいつもどこか、遠くを見ていた。ここには無いもの、あるいは、もう失くなってしまったものを追っているような。
どうしてそんな寂しそうな顔をしているのか。彼は何を探しているのか。菜乃花はそれが気になって、不思議とクリフに近づきたくなった。それがきっと、クリフの背中を追いかけ始めた理由だったと思う。
そして今やっと理解した。クリフの寂しさの正体は、彼女だったのだ──と。
今ようやく、あんなに知りたかった理由に、やっと菜乃花は辿り着いた。
強く優しい彼の心に空いた寂しさの虚。一人の少女のカタチそのままの空白。
そして、こうも思う。クリフはきっと、今も彼女のことが大切なのだ。彼女の面影は過去ではなく、今もずっと、「約束」という形で彼に寄り添っている。
「(だから、クリフくんはあんなに強いんだ。自分だけじゃない、周りも元気づけられるくらい)」
菜乃花が挫けそうなとき、もうだめだ、と思ったとき。「立て」と手を伸ばしてくれるクリフを思い出す。
菜乃花にとって、クリフは単に力が強いだけでも、心が強いだけでもない。真ん中に一本、まっすぐ芯が通っている男の子だ。その意志が揺れることはあっても、ブレることは決してない。
……思い出されるのは、やはりあの日のこと。
菜乃花が死にかけたとき、まっすぐな目をして、「必ず助ける」と言ってくれた。可能性がゼロでない限り、諦めないと。
あのとき。自分を助けるためにクリフが「戻って来なくなる」かもしれない、と思ったとき。菜乃花の心を支配したのは凄まじい恐怖だった。
今まで、自分はずっと「置いていく側」だった。初めて「置いていかれるかもしれない」と思ったとき、どうすればいいのかわからず、泣き出しそうで、でも泣いている暇もなくて、心が凍えるような想いだった。
……幼馴染を喪ってから、クリフはずっとあんな思いを抱え、耐えてきたのか。なのに今、あんなに優しくて綺麗な横顔で夕日を見つめられるのか。
そう思うと、なぜか菜乃花のほうが泣きたくなる。
──今度こそ、決して喪わない。そして、喪わせない。誰よりも、喪う痛みを知っているから。
……奈落花の存在と約束が、今のクリフを作った。そのことは、あの日、赤龍のすがたになったクリフが、彼女の幻影をかばい続けていたことからも明らかだ。
思うだけでもなく、願うだけでもなく、クリフは彼女との約束を「本当」にしようと今も頑張っている。
「(かっこいいな、クリフくんは)」
そう思って、しかし口から出たのは想い通りの言葉ではなく、小さなため息だった。
……いつもなら想いと一緒に言葉に出るのに、今日は出てこない。胸に何か詰まっているようにただただ痛くて、言葉にならなかった。
きっと、今のクリフが菜乃花の知らない男の子の顔をしているからだ。
ずきん、ずきん、と。波打つように、あるいは胸を叩くように、定期的に心が痛む。
泣きたくなるような、悲しいような、切ないような。少しだけの不快感と、反対の心地よさ。矛盾した痛みは消えてくれない。
なんだろう、これ、と菜乃花は思う。ただわかるのは、クリフのことを考えるとその痛みが続くということだ。
いや、正確に言えば──
「(落谷、奈落花ちゃん。クリフくんの大切な女の子)」
クリフが、あんな姿になっても幻想の中で守り通そうとした、女の子。
クリフの心に、一番近い女の子。その子とクリフのことを考えると、胸が痛むのだ。
「いいなあ……」
ぽつ、と。クリフに聞こえないくらいの小さな声で、菜乃花は思わず呟いていた。
……どんな人なんだろう。知りたい。でも、知りたくないような気もする。知ってしまったら、後戻りが出来なくなるような気がした。
どうしちゃったんだろう、わたし。菜乃花は収まる様子のない胸の痛みを感じつつ、恥じ入って思わず俯く。
今まで、いつか病気で死ぬのだと理解してからも、誰かを羨ましいと思ったことなんてほとんどなかった。
自分より健康な体も。彩豊かな人生も。大人になれる未来も。まるで窓枠の向こうで演じられる華やかな劇のように思いこそすれ、手を伸ばそうとは思わなかった。
むしろ、死にゆく自分が、そんな鮮やかな世界を垣間見ることが出来ただけで、幸福だと思えていた。
今あるものだけで幸せだ。欲をかく必要も、これ以上を望む必要もない。ずっとそう思ってきたはずだ。
……なのにどうして、今、こんなに彼女を羨ましいと思ってしまうのだろう。
恥ずかしい。こんなことはきっと、よくない考えだ。
思わず、菜乃花は胸の前で握りしめた自分の両手に力を込めた。少し痛みを感じるほど強く。そうせざるを得なかった。
そのとき。
ふ、と。背後から視線を感じた気がした。はっとして、菜乃花は思わず振り返る。
視界の端に、さら、と何か横切った気がした。影のような、光のような、誰かの髪が靡いた名残のような淡い気配。
「菜乃花? どうした?」
「ううん、なんでもない。気のせいだったみたい」
クリフは突然振り返った菜乃花を見て、不思議そうにしている。
……振り返った先には、何もない。誰もいない。だから菜乃花もそう答えた。
誰かいたような気がしたのに。ちょうど同い年くらいの、少女のようなシルエットが──
「そろそろ行くか」
「……うん、そうだね」
そんなことが言えるはずもなく、菜乃花はクリフの声に答えて、小さく頷いた。
* * *
元旦の暮れは、やはり冷えて澄んだ空気だった。気づけば、夕日はすっかりビル群の向こうへ隠れ、夜のとばりが迫っている。
飼い犬のボタンの速度に合わせ、少し早足になりながら、椿は空を見上げる。藍色とオレンジのグラデーションに染まった、狭間の時間。天然の奇跡の色合いに、感嘆のため息が漏れる。
さすがに元旦くらいは休んでください、という上司の苦笑交じりの言葉を受けて、今日の椿は自宅で一日を過ごした。
……そういうあなたこそ、元旦も休んでいないのでは?
上司に対して椿はそう言いかけたが、言っても無駄なので黙っておいた。しかし、代わりに明日は必ず休暇を取ってもらわねば。
今は、日課でもあるボタンとの散歩の最中だ。
いつもは仕事帰りに行くので遅めに、かつ短くなりがちだが、さすがに今日はゆっくりと歩ける。心なしか、ボタンのテンションも高い。
とはいえ、そろそろ切り上げて、マンションに戻らねばならない。椿は愛犬に「ボタン」と呼びかけるべく口を開く。
そのとき、タイミングよくコートのポケットから着信音が流れた。元旦から何だろう、と思ってスマートフォンを取り出すと、画面には見覚えのある名前が表示されている。
「……もしもし?」
『よう。……あー、そっちはもう年明けてるのか。あけましておめでとう、だな』
「おめでとう。その口ぶりだと、また本部のほうに連れていかれたのね。わざわざ連絡してくるなんて珍しいわね」
耳にスマートフォンを当てて、椿は空を仰ぐ。
電話の相手はよく知った相手だ。椿と同じUGNチルドレン出身のエージェントであり、椿とは別の上司を戴いているため、今は別行動することが多い。
相手の上司は椿の上司と違ってUGN本部の所属なので、その直属エージェントともなれば、国境なんてあってないような活動範囲だ。多忙を極め、かつ本人もそこまでマメな人間ではないので、連絡は来たり来なかったり。
『年も明けるしな。さすがに休みだろうと思って。最近はどうだ? また後輩に鬼教官とか言われてんじゃないのか?』
「無意味に厳しくなんてしないわ。みんないい子たちだしね。どこかの誰かさんと違って、目を離せばすぐサボろうとしたり、わざと手を抜いたりもしないし」
『へいへい、俺が悪ぅございましたよ……』
冗談めかした相手の話題に、椿もあえて乗って答えた。少しだけ笑いあって、言葉を交わす。
言葉とは裏腹に、椿はほっとしていた。最近は忙しい日々を送っていたこともあり、彼とゆっくり会話をするのも久しぶりに感じる。
自他ともに【相棒】なんて言葉で表現されている、自分と彼の関係性。今は物理的な距離と立場の違いのせいか、少し遠く感じる。それがほんの少し埋まるような、温かな気持ち。
色々なものを乗り越えて、心も体も千切れそうになりながら、それでも離さなかった絆のつながり。それを改めて感じて、椿は目を瞬く。
……わたしは一人じゃない。
ありきたりで、でもすべてのオーヴァードにとって必ず必要なその気持ちが、強くなる。
「……でも、確かに最近は色々あったわ。後輩が二人ほど命と心の危機だったし。あらゆる面で、自分の力不足を痛感した。まだまだよ、私」
だからだろうか。弱音のようなことを彼に吐いてしまったのは。彼ならわかってくれる、彼なら大丈夫と言ってくれる。そう確信しているから。
『そりゃ、大変だったな。まあ、最終的には「帰って」来たんだろ?』
「結果論だけどね」
思わず、自分のふがいない記憶を思い出して、ため息が出る。
去年起こった、龍巳クリフと久方菜乃花の事件。レネサプレストという特殊な能力を持つオーヴァードに、久方菜乃花が攻撃を受けて死にかけた。彼女を救おうとした龍巳クリフもまた、瀕死の重傷と、ジャーム化寸前の暴走を引き起こしたのだ。
「……私、信じられなかったの。彼が帰って来るって。目の前で仲間を助けようと暴走している姿を見て、もう手遅れなんじゃないかって……ジャーム化してるんじゃないかって思ってしまった。大事な後輩なのにね」
そう言葉にした椿の表情には、無意識に苦笑が浮かぶ。電話越しの彼もまた、考え込むような気配をさせていた。
自分の手の届かないところで、誰かが帰って来なくなること。それは、彼と共に最前線で戦ってた時は、抱いたことがなかった恐怖と疑念だった。
朝送り出したチルドレンたちが、元気で、同じ姿で帰ってくる保証なんてどこにもない。彼らは戦って、傷ついて、心に痛みを負って、そして時折、不意に訪れる理不尽に足を取られる。
まるで、不可視の断崖から足を踏み外すように。あっけなく、非日常の一ページとして消えてしまう。
彼らのその、不可視の断崖に対する命綱は、ただ「大切な人との絆」のみだ。
今の椿は、その危うさを誰よりも知っている。だから、あのとき龍巳クリフの帰還を一瞬疑った。
そしてまた、久方菜乃花の言葉に頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。
『クリフくんは、まだジャームになんてなってません!』
脳裏に蘇るのは、迷いなくそう言い切った彼女の姿。
普段から明るくはあるが、簡単に声を荒げるような少女ではなかった。
『だって、クリフくんは世界一強いんです! かっこいいんです!』
『ずっと、ずっとわたしやみんなを助けてくれて、今もまだああやって誰かを助けようとしてるクリフくんが……』
『そんな優しいクリフくんが、ジャームな訳がないです』
声を張り上げ、目に涙の膜を張りながら。別離の可能性と恐怖に、身を震わせながら。龍巳クリフと同じ、不可視の断崖に絶えず立ち続けながら。
それでも、今まで見たこともないような真剣な表情で、声を張り上げて、一心に彼を信じていた。
「……待つ側っていうのは、難しいわ」
またひとつ、椿はため息を漏らす。
かつての椿は、龍巳クリフや久方菜乃花と同じ、「あちら側」だった。
大切な人と同じ戦場に出て、同じ血と泥と危険の中で戦っていた。今のように、チルドレンたちの実践訓練の一環としてではなく。
そのときは、どんなときでも信じていた気がする。どんなに可能性が低くても、祈るようにだとしても、その人が帰ってくることを。
いいや、信じるだけではなく、守ろうと誓っていた。この背中に守るものだけは、決して奪わせない。喪わないと。
『……色々あるだろうけど。まずは帰って来たことを喜んでやったほうがいいんじゃないか? 椿』
電話越しの声は、いくらか穏やかな口調になって、そう返してきた。
椿は思わず苦笑する。それはその通りだ。結果論ではあるが、龍巳クリフは無事にジャーム化を免れ、久方菜乃花の手を取り戻って来たのだから。久しぶりに彼の声を聴いたものだから、らしくもない弱音を吐いてしまったらしい。
「そうね。無事に戻ってきてくれて、本当によかった」
『こっちとしては、日本に頼もしい後輩が育ってて安心した。俺もそのうち追い抜かれて、楽が出来るかもな?』
「またそういうことを……藤崎さんに怒られても知らないから」
睨んだって電話の向こうには伝わらないことはわかっていたが、椿は思わず眉を顰めてしまった。
藤崎、というのは電話向こうの彼が上司と仰ぐ人だ。椿の上司──霧谷雄吾の同期にあたる。いつも柔和な笑みを浮かべている霧谷と対照的に、冷静沈着で厳しいことで有名だ。
『怒られねえよ。こっちはあの人のおかげで休まず働かされてんだ、褒められるならまだしも……いまだって、これからまた出国準備だぞ』
「そう。ひとまずは真面目にやってるようで安心したわ。次はちなみにどこへ行くの?」
UGNの支部は各国、各町にわたる。その国の主要な支部を回るだけでも大仕事だ。藤崎について本部へ行ったのなら、そのままどこかの視察に連れていかれる可能性もある。
そう思って聞いただけだったが、椿の予想に反して、彼の返答は遅い。
「……? 隼人?」
思わず、彼の名前を訝しげに呼んだ。電話の向こうの彼──高崎隼人は、たっぷりの沈黙の後、こう口を開く。
『お前んとこだ。急だけど帰国する。明日着くから、美味いもんでも食いに行こうぜ』
「……は? え、なに、そんな急に!?」
椿は面食らって、思わずスマートフォンを耳から離した。年末の記憶を掘り起こすが、霧谷はそんなこと、一言も言っていなかったはずだ。
また、電話の向こうで悪戯っぽく隼人が笑う気配がする。
『その、椿自慢の後輩たちにも会っておかなきゃな』
「ちょっと隼人! あなたそういう大事なことはもっとちゃんと……!」
『わかってるよ、割と真面目にな。だから詳しくはそっちに着いたあと、直接話す。じゃあな』
『だから、それはどういう意味──って、いきなり切るな!」
ああもう、と椿は一通り憤って、スマートフォンをコートのポケットに戻す。
傍らには、愛犬のボタンが「どうしたの」とでも言いたげに首を傾げて尻尾を振っていた。
こうして元旦の夜は更け、新しい年が始まってゆく。