プロローグ
明けましておめでとうございます。
去年は龍巳クリフ×久方菜乃花に狂い、今年も初めから狂っております。
自PC久方菜乃花と、mainさんGMの「君の傍にいたいから」でご一緒したPCさんたちで初詣のお話。
朔芽さんのPC・一条蛍司くん、mainさんのNPC・広瀬志希ちゃん、なりへいさんのPC・龍巳クリフくん、マジクさんのPC・野川なつさんをお借りしています。
いつも通りクリ菜乃展開もあり。
自然の岩を並べて作られた石段を上りきり、朱色に塗られた鳥居を見上げる。
「わあ……すごい人!」
菜乃花は、白い息を吐きながら感嘆の声を上げた。
空は冬の午前中らしく高く、空気は冷たく澄んでいる。雪こそ振っていないが、肌に触れる外気はひんやりと肌を撫でていた。
丈の長くて黒色の、大人っぽいコートを翻し、菜乃花は小走りにその神社へと足を踏み入れる。今冬両親に買ってもらったばかりの、少し背伸びした服に心は躍るばかりだ。
「さすがの人だかりねー。でも、有名どころ外したからまだマシかな」
「そうですね。夜中はもっとすごかったかも。昼間にしてよかったです」
菜乃花に少し遅れて、なつが最後の石段を登ってくる。そのあとに続くのは、蛍司と志希だ。
目の前には右も左も人、人、人の群れで溢れている。菜乃花と同じく、誰も彼も暖かそうなコートに身を包み、ゆっくりと歩いていた。
「ね? 昼間のほうがいいでしょ、志希!」
「……お前と菜乃花は起きてられないだけだろ」
得意げに志希に言ってみせる蛍司。それを最後に登って来たクリフがぼそりとそう指摘すると、菜乃花と蛍司はそろって「うっ」と呻いた。
1月1日。正月を迎えるこの日、神社はどこも、一年でも最も賑わうことになる。いわゆる初詣だ。
神様に一年のあいさつをするであるとか、色々いわれはあるのだが、ほとんどの人にとっては「正月のいちイベント」だろう。
この五人もその例にもれず、友達同士でのイベントごととして、近場の神社に初詣に訪れたのだった。
「とりあえず参拝か。そのあとはなんかあるのか?」
「そうだねー。お守り買ったり、おみくじ引いたりとか?」
クリフの視線の先では、人だかりが大きな列に並んでいる。おそらくはこれが、参拝を済ませるために並んでいる人の列だろう。その列の先のほうからは、ぱらぱらと人が散って、各々神社の施設へと歩いている。
「あっ、わたし、おみくじ引いてみたい!」
「俺も俺も! 志希もやろ!」
「うん、わかった。お参りが終わったらね」
ひとまず並ぼうか、と、志希がはしゃぐ菜乃花と蛍司を宥める。
有名どころを外したとはいえ、一年で最も多い人の群れだ。袴を着た神社の関係者らしい人が、忙しそうに列を整理したり、歩き回っている。はぐれればそれなりに合流には手間取るだろう。五人は自然と、身を寄せ合うように列に並ぶ。
「友達と初詣、わたし初めて! 凄く楽しい」
「私も。風邪ひくと大変だって、寒い時期はあんまり外に出られなかったから」
「そうだよね! 志希ちゃんも来られてよかったあ」
菜乃花と志希は嬉しそうに笑いあう。
二人とも、この時期はたいてい入院しているか、家にいても外出できなかった事情がある。色々とあったが、今は友達と自由に出歩けるようになったのはここ数年の話だ。
「菜乃花、あんまり離れるなよ。お前、この人だかりに埋もれたら見つからないだろ」
「はぁい。でも大丈夫だよ、クリフくんが見つけてくれるでしょう? 背、高いから。あ、クリフくんがはぐれたら、わたしが見つけるね」
「あのな……まずはぐれるなよ。そこからだ」
菜乃花は長年の闘病生活で、同年代に比べて発育が遅い。背丈もかなり低い方だ。今も隣にいないと、一瞬で見失いそうなほど小さく見える。対して、隣に立つクリフは背が高い方で、二人並ぶと身長差が良く分かった。
ゆっくりと、しかし確実に進む列の流れに合わせて歩を進める。やがて賽銭箱の前までたどり着いた五人は、並んで各々お賽銭を入れる。
「ね、ね、わたしが鳴らしていい? あの鈴!」
「いいよー。よろしくね、菜乃花ちゃん」
菜乃花は言いながら、神社には必ずあるあの大きな鈴と、それについている長い紐をすでに持っていた。なつは笑いをこらえながら、どうぞどうぞというような仕草で返す。
「(そういえば、これ、なんていう名前なんだろう)」
そんな疑問を想いつつも、菜乃花は上機嫌でガラガラと鈴を鳴らす。それに合わせて、五人ともそっと手を合わせた。
目を伏せながら、菜乃花はふと、考える。今年の願い事はなんだろう、と。
去年までの願い事は、「高校生になれますように」とか、「今年も一年、家族と健康でいられますように」と言ったものだった。今年も同じ……でもいいのだが、それを思い描く前に、少しためらってしまう。
「志希とずっと、ずーっと一緒にいられますように!」
そのとき、隣の隣からそう聞こえてきて、どきっとする。思わずそちらを見ると、蛍司が少しだけ頬を赤らめて、隣に立つ志希と笑いあっていた。
「蛍司と、ずっと一緒にいられますように」
そして志希のほうも、小声でそう唱えて目を閉じる。両手を合わせて祈るその姿が、酷く綺麗に見えて、思わず見惚れた。
思い出すのは、去年経験した大きな任務でのこと。
二人とも、その任務で人生の転機を迎え、酷く辛い出来事を経験した。それでも、二人は一緒に生きることを選び、こうして隣に立っている。
「辛いことも、悲しいこともあったけど。これからも、あるかもしれないけど……やっぱり私は、蛍司の傍にいたいから」
いつだったか、志希と二人で話した時、彼女は菜乃花にそう話した。穏やかに、嬉しそうに。それは、未来の不安や不運を想いながらも、幸福そうな笑顔だった。
素敵だな、と菜乃花はそれを見て心から思う。同い年なのに、そのときの志希はずいぶんとお姉さんに見えたものだ。
「(ずっと、一緒に……)」
二人の願い事を心の中で反芻する。そうしながら、菜乃花は反対側の隣を見た。そこには、やはり目を閉じて何かを願っているクリフの姿がある。願い事をしているときでさえ、精悍で頼もしい。
去年起こった事件と言えば、菜乃花とクリフにとっても、年の暮れに大きな事件があった。
あるFHに菜乃花が攻撃を受け、レネゲイドの力を弱められた結果、心臓の病気が再発して死にかけたのだ。それを救ってくれたのは、クリフだった。
もともと、何かの恩情で与えられた人生だと思っていた。だから、菜乃花はついに「そのとき」が来たのだ、と思った。
もちろん、死にたくはない。取り返しのつかない「そのとき」が来るまでは、諦めたくない。赦されなくなるまでは、たとえ何かの間違いで生かされていたのだとしても、精いっぱい生き抜きたい。
……けれど、理不尽は突然やってくる。だからせめて「そのとき」は、最後まで大切なものの価値を損なわないように。
FHに行けば、生かしてやる。そう言われた菜乃花は、その提案を断った。
だって、命惜しさにそれを選ぶことは、菜乃花が今まで得てきた美しいもの、愛おしいもの、夢見てきたことに、自分自身の手で傷をつけることだと思ったから。
『どんな事になっても、死ぬよりはずっといい。お前がFHに行っても俺が絶対に連れ戻す。何があっても──』
しかしクリフは真剣な顔で、菜乃花に「それでも生きてほしい」と言ってくれた。間違っていてもいいから、生きていてほしいと。
そのせいで、菜乃花だけではなくクリフもオーヴァードとして死に瀕することになってしまった。
自分を助けようとしたせいでクリフが──菜乃花が死んでも守りたかったものが失われるなんて、耐えられなかった。そんなことのために生を諦めようとしたわけではないんだと、あのときの菜乃花は半ば衝動的に駆け出した。
菜乃花は必死で手を伸ばし、その手はやはり、奇跡的に届いて……結果的には、二人ともこうして生還を果たした。
「(……わたしも、クリフくんと、ずっと一緒にいられたらいいな)」
そこまで考えたとき、その願いは自然に浮かび上がってきた。
あんなことがもう起きなければいい。同じようなことが起こったら、きっとクリフは優しいから、同じように菜乃花を助けようとするだろう。
だから、あんな事件そのものが起こらなければいいな、と思った。そして、今までのようにずっと一緒に、笑ったり、はしゃいだり、たまに小言を言われたり、そういうことができればそれでいい。
そこまで思ったとき、菜乃花の視線に気づいたのか、クリフが目を開けて、菜乃花のほうを見た。
目が合って、どきり、と菜乃花の心臓が大きく脈打つ。切れ長の、しかし出会った頃よりかずいぶんと優しくなった気がする目元に見つめられ、なぜか頬が熱い。
こっちを見てくれただけなのに、何故かものすごく嬉しかった。
「…………」
菜乃花がクリフのほうをじいっと見ていたとは思わなかったのだろう。クリフは目が合うと、少しだけ目を見開いて、それから気まずそうに視線を逸らす。
すると今度は、心臓がずきりと痛みを訴えた気がした。
「(あ。逸らしちゃった……せっかくこっち、見てくれたのになあ)」
なんだろう、これ。そう思いながら、菜乃花は今度こそ正面を見て、自分の願い事をすることにした。目を閉じて、両手を合わせ、懸命に願い事を思い描く。
「(これからも、感謝を忘れずにいい子にしています。だから──)」
だからどうか、神様。わたしの命をこれからも赦してください。
「(……クリフくんと、ずっと一緒にいられますように)」
口には出さず、しかしその分、一心に願う。そのときばかりは、寒さで痛くなった耳元も気にならなかった。
「そろそろ行くか」
直後、隣からクリフがそう声をかけた。願い事を聞かれたわけもないのに、なぜかそれだけで、また菜乃花の心臓がどきりと跳ねる。
そうだね、と口々に並んだみんなが同意して、四人は最前列から横に捌けていく。菜乃花も慌てて、それを追いかけた。
「ね。……クリフくんは、何をお願いしたの?」
小走りになってクリフに追いつき、菜乃花は尋ねる。クリフは菜乃花のほうを見て、怪訝そうな顔をした。
尋ねてしまってから、ああ、わたし今、ちょっとずるい子だ、と菜乃花は思う。自分は願い事を言うつもりがないのに、クリフの願いがなんだったかは、聞きたいと思っているからだ。
そして、自分と同じ願いだといいな、なんて考えてしまっているからだ。
でも、きっとクリフは答えないだろう。なんとなく、菜乃花にはそれがわかっていた。
「何って……いや、こういうのは、言わない方がいいんだよ、その方が叶う気がするだろ」
そして案の定、クリフは口を割らない。困ったような顔をして、何故か少し頬を赤らめ、白い息を吐きながら視線を逸らす。
──やっぱりそうだよね。だってクリフは、大事なことほど胸に秘めておく男の子だから。
菜乃花は自分の予想が当たったのが、ちょっと残念で、でも少し、クリフを理解できている気がして嬉しい。
「そうなんだ。……じゃあ、わたしも言わないでおこ」
本当に大事な願いは、秘めておく。その方が叶う気がするから。
いつも思いは口にしたほうがいいと思っていた。いつ伝えられなくなるかわからないからだ。
けれど、この願いだけは叶ってほしい。だから黙っておこう──そう思ったとき、また菜乃花の心臓のあたりがとくんと脈打った気がした。
クリフは菜乃花がそう言ったのを聞いて、何か言いたげにしていたが、結局何も言わずに前を向いた。
* * *
「それじゃあ、この辺で解散かな。お正月は色々やることあるでしょ」
参拝、おみくじ、お守り購入と、一通り初詣のフルコースを楽しんだ後、なつが振り返ってそう言った。
「なつさん、これからお雑煮とかいっぱい作るんでしょう?」
「そうだよ。お正月だからねー。これから忙しいよ」
「頑張ってくださいね」
子供好きで面倒見のいいなつのもとへは、イベント毎によく子供が集まる。クリスマスも大変そうだったが、正月も例にもれず多忙のようだ。なつ自身も楽しそうにやっている。
「俺と志希は、これからデートだから!」
えへん、というように胸を張って、蛍司が言う。志希は隣でまた頬を赤らめて「ふふ」と控えめに笑っていた。
「わかったから、行くなら行けって。どこも混んでるぞ、今日は」
「わかってるよ! 先輩は? デートしないの?」
デート。その言葉にまた菜乃花の鼓動が早まる。
そういえば、少し前にクリフと「デート」ではないかもしれないが、「デート」らしきことをした。一緒に出掛けて、ごはんを食べて、買い物をしたくらいのことだったが。
「……お前な……人の心配じゃなくて、自分の予定のことだけ考えてろ」
「あはは。はーい!」
クリフは少し言葉に詰まっていたが、いつも通りに蛍司に小言を返していた。
言われた蛍司は、それでもクリフにかまってもらえて嬉しそうに笑う。そして志希の手を取って、「またねー!みんな」と明るく声を張り上げて人混みの中へ二人で消えていった。
なつも、「じゃあまたね」とお姉さんらしい笑みを浮かべてから、自宅の方角へと歩いて行った。
あとに残されたのは、クリフと菜乃花の二人だけだ。
神社の出口は、参拝を終えて帰路につく人々や、次の目的地へ向かおうとする人で溢れているが、なぜか菜乃花には、クリフの姿だけ浮いて見えるようだった。
「(もう、用事はないけど……これで、初詣おしまいかあ)」
クリフくんと、もう少し一緒にいたいな、と、菜乃花はごく自然にそう思った。理由なんて思いつかないけれど、とにかくそう思う。
ちら、とクリフのほうを見ると、彼は腕時計を見下ろしている。これから、何か予定があるのかもしれない。
「(ダメかなあ……ダメだよね。急だし……クリフくん、困っちゃうかな)」
でも、ダメ元で誘ってみようか。だって、この間また遊びに誘ってくれるっていったきり、誘ってくれてないし。それなら菜乃花から誘ったって……と思って口を開きかけたそのとき、クリフのほうから菜乃花に向き直った。
「帰るか? 電車、もうすぐ来るみたいだし」
「…………あ、うん……そうだね」
先手を打たれた形になって、思わず菜乃花は頷いてしまった。クリフ菜乃花の出鼻をくじいた気など全くないだろうが、とにかくぼっきりと折られた形だ。
しかし、一度頷いてしまったものを取り消すことも出来ず、とぼとぼと、菜乃花はクリフの後について駅へと向かうことにした。
駅に二人がたどり着くと、そこも人でごった返していた。初詣帰りの人、ということもあるのだろうが、それにしても人が多すぎる。
電光掲示板には何かの表示がされているようだが、菜乃花は背が低すぎて、背伸びをしてもよく見えなかった。
「……電車遅延? 運転取りやめ? すごいことになってんな……信号機トラブルか」
クリフのほうは、背伸びなどせずとも十分読めたらしい。どうやら、二つ前の駅で信号トラブルがあったらしい。しばらく電車は動かないようだ。
「わあ……こんな日にトラブルなんて、大変」
「だな。でもこりゃしばらく動きそうにないな……適当にどっかで暇潰すか」
ため息交じりにクリフがそう言ったのを聞いて、正直なところ、菜乃花は少し……いや、とても嬉しかった。
さっき、「もうすこし一緒にいたい」と思った自分の願いが、その通り叶ったような気がした。電車のトラブルに奔走している駅の人には大変申し訳ないが、思ってしまったものはしょうがない。
「うん。どこか、入ろっか。寒いもんね」
「近くにファミレスあっただろ。行ってみるか。……駅がこれじゃ、そっちも混んでるかもしれないけどな」
行くだけ行くか、と言って踵を返したクリフを、菜乃花も一つ頷いて追いかけた。
そうして二人訪れたファミレスも、思ったほどの込み具合ではなく、すんなりと入ることが出来た。
なんだか今日は運がいい。菜乃花は安っぽいソファに座りながら、そんなことを考えた。さっそくすぎるが、神社でお願いしたことが叶い始めている気がして、ワクワクした。
「初詣も駅も、すごい人だったね」
「疲れたか?」
「少し。でも大丈夫だよ。入院してた頃とは全然、元気さが違うもん」
ドリンクバーを注文して持ってきた飲み物を手に、菜乃花がそう言って笑う。するとクリフも穏やかに「そうか」と微笑んだ。
「まあ、これくらいで疲れてたら、任務なんかできないか」
「そうだよー。高校生とエージェントの二足のわらじ! だもんね。クリフくんは今年、卒業しちゃうけど」
「俺は社会人とエージェント、になるか。……まあ、あんまり心配はしてなかったけど、なんとか無事、決まってよかったかな」
クリフのほうもカフェラテを手に、苦笑しながら安堵のため息をつく。
クリフは今年高校を卒業する。それからの進路は、UGN系列の企業に就職し、エージェントとしての活動も継続するそうだ。両親がUGN所属であることもあり、進路にはさほど迷っていなかったらしい。
ただ、いわゆる就職活動期間に当たる今年の夏からこっち、彼は異常に多忙だった。特に今冬は。
「忙しかったもんね。……主にわたしのせいだけど……」
今冬に起こった事件……つまり、菜乃花が死にかけた件だ。クリフもジャーム化寸前までの重症で、回復までしばらくかかった。ただでさえ忙しい就職活動の時期に、さらにクリフに負担をかけてしまったのではないかと、菜乃花は気が気でない。
「お前のせいじゃないって何度も言っただろ。……俺が、自分で決めてやったんだから」
しかし、当のクリフはまっすぐに菜乃花を見つめ返し、その時ばかりは迷いなくそう言い切った。
その言葉に、胸がまた嬉しさでいっぱいになる。自然と口元には笑みが浮かんで、幸せな気持ちがすぐに溢れた。
「……うん。本当にありがとう、クリフくん」
クリフといると、こんなに簡単に幸せな気持ちになれるのは、本当に不思議だ。
「いや、そんな……本当に、俺がやりたくて、やったことだから。お前が無事だったから、もういいんだ」
まっすぐなお礼に、クリフは照れ臭いのか顔を背けて少し頬を赤らめる。こういうところも、硬派で素敵だなあ、なんて菜乃花は思う。
……クリフの言うとおり、あのとき、クリフは自分の意志で、菜乃花を生かそうと必死になってくれた。そして言葉だけでなく、行動で救い出してくれたのだ。そのことを思い返すと、心が温かくなり、同時にぎゅっと締め付けられるように切なくなる。
……もう少しでクリフを失いそうになった、その時のことを思い出してしまうからだ。
やはりもう二度と、あんなことは起きないでほしいと思う。
「俺のことは、もう済んだことのほうが多いからいいよ。次は菜乃花のほうが忙しいだろ。確か、進学するって言ってたか」
「うん! えへへ、やっぱり大学生っていうのも、いいかなあって思って。お父さんとお母さんも、自分で決めたんなら頑張りなさいって」
「そうか。なら受験生だな。勉強頑張れよ」
「うっ……勉強のことは、思い出したくないなあ……」
「お前な……今からそんなこと言っててどうするんだよ。これからは、今まで見たいにちょくちょく勉強見てやれないかもしれないんだし、自分でも頑張らないと」
そこまでいわれて、はた、と菜乃花は動きを止めた。
言われて初めて気が付いたのだ。クリフは高校生ではなくなって、別の場所で生活の基盤を築くことになる。今まで通りにはいかないのだ、ということに。
「そっか……そうだよね」
今までは学校が違っても、だいたいの時間は合わせられた。休みの日も、放課後も、長期休暇も同じで、同じリズムで生活していた。
けれど、今年からは違う。クリフは社会人になり、菜乃花は多忙な受験生になる。クリフは大人たちの世界で生き始めることになる。
かつて、菜乃花は中学生の頃、高校生がひどく大人に見えた。明確な線があり、憧れの世界でもあった。
だが、社会人と高校生の間には、もっともっと明確で、致命的な「線」があるような気がした。それは大人と子供を分ける線かもしれない。
今年から、クリフは「あちら側」で、菜乃花はまだ「こちら側」なのだ。
そう理解したのと同時に、心臓が「ずきん」と淡い痛みを発した気がした。なんだろうこれ、と意識するとすぐに消えてしまうくらい、淡くてはかない痛みだったけれど、確かに感じる。
「クリフくん……大人になっちゃうんだ……」
「っごほ、げほっ! お、お前、もっと言い方があるだろ」
「だって、そうでしょ」
その痛みを胸にとどめておくのがなんとなく辛くて、思わず机に突っ伏して、菜乃花がつぶやく。
飲み物を飲みかけていたのか、一瞬咽たらしいクリフの顔は見えない。
菜乃花はそのまま、真っ暗になった視界で考える。ずっと高校生になるのが夢だった。それまでに死ぬと思っていたから。叶わない夢を描くつもりで、高校生と言う夢を描いた。
だからこそ、菜乃花に「大人になる」ということは、よくわからないままだ。
高校生ではなくなる、ということ。変わっていく、ということ。それは、今の菜乃花にはまだほんの少し──
「間違っちゃいないけど……それで言えば、お前もあとたった一年したら、大人になるってことだぞ」
「そう、なのかな」
それはそうだろ、と、菜乃花の相槌にクリフは返す。
……大人になる、ということが、今はまだほんの少し、怖い。
「(怖い……んだ。わたし)」
そうだ、怖い。
ずっと一緒にいられますように。今日、思わずそう神様に願ったのは、変わるかもしれないからだ。いままでずっと一緒にいた、この関係が変わるかもしれないから。
居心地がいい、クリフと過ごすこの大切な時間と関係が、終わりのあるものになってしまうから。
それを、「いやだ」と思う自分がいるから。
「(願わないと、叶わないかもしれないからだ)」
……クリフも自分も、ただただ生きているだけで変わっていくのなら。
ずっと一緒に、とは、なんて難しい願いだったのだろう。
「クリフくん」
ちら、と突っ伏した顔を少しだけ上げて、クリフの表情を盗み見る。クリフは不思議そうに、菜乃花を見下ろしていた。
急に、クリフに触れたくなった。いつものように抱き着いて、ぎゅっと抱きしめて、その存在を確かめたくなる。
クリフくんはどこにもいかないよね。ずっと一緒にいてくれるよね。
そういって、ずるくすがって、甘えたくなる。
「ん? どうした」
しかし、途中まで伸ばした手はそのまま止まる。その願いは言ってはいけない、言いたいけれど、酷く恥ずかしくて、とても口にできそうになかった。
「…………なんでもない。やっぱり、ちょっと疲れたのかも」
そんな適当な嘘までついて、誤魔化してしまう。
なんでだろう、と菜乃花は再び顔を自分の腕に埋めて、思う。
触れるのも、抱きしめるのも、そんなに抵抗なくやってきたはずなのに。急にとても、それが難しいことのような気がした。