久方菜乃花関連,  テキスト

まるで春の陽射しのように

またしてもなりへいさんのPC・龍巳クリフくんをお借りしております。
自PC久方菜乃花と、龍巳クリフが初めて会ってから少しした頃のお話。
まるで寂しい夕日のように」から少し後のイメージです。

 奈落花のあの夢を見なくなったのは、いつからだったか。その境目には、彼女がいたように思う。
 春の嵐のように、明るく騒がしく、軽やかな少女。龍巳クリフの、久方菜乃花に対する印象は、概ねそういうものだった。
 ……正直なところ、クリフは彼女のことが少し苦手だ。
 春の日の、朝の陽差しを思わせる温かな笑み。一面に咲いた花を揺らす風のような、賑やかな声。彼女は笑顔を絶やさず、人を疑わず、敵を憎まず、絶望を知らない。
 まるで春一番のように、予告なくやってきてはクリフを振り回す。
 「クリフくん、おはよう」
 頼んでもいないのに、クリフに会うために早起きしたのだ、と胸を張って言い、朗らかに笑った日もあった。
 「またね、クリフくん」
 毎回、別れるときは笑顔で手を振ってそう言った。クリフが振り返らなくたって、返事を返さなくたって、態度はいつも同じだ。決してあきらめず、めげずに彼女はやってくる。

 「……明日も来るのか、あいつ」
 思わずため息交じりの声が出た。
 クリフがUGN支部の予定表を確認すると、明日の訓練参加メンバーにも久方菜乃花の名前があった。
 自分の予定くらい、彼女も把握しているはずだ。絶対にまた絡まれる。そう思うと今から気が重かった。
 彼女は決して諦めないから、近頃のクリフは彼女の気が済むまで、じっと耐えるか、待つしかない。一度や二度、見かねてクリフから「気を遣わなくていい」「放っておいてくれ」と強め言ったこともあるにはあるが、彼女にはあまり響いていないようだった。
 彼女は春を待ち窓の前に座る猫のように、辛抱強く、諦め悪く、そこから退こうとだけはしない。なんとなく、自分の手でその場から退かしづらいのもよく似ていた。
 そういえば最近はいつも、菜乃花のことを考えさせられている気がする。
 もちろん、考えている内容は、どうやって避けようか、どうやってやり過ごそうか、というようなことではあるが。
 「(……勘弁してくれ)」
 クリフはその口を引き結んで、予定表から視線を外した。

* * *

 ……寝覚めは、相変わらず悪い。懐かしささえ覚える痛みの残滓を胸に、クリフは目を開く。二、三度ゆっくり目を瞬いてから上体を起こした。ゆっくり深呼吸をして、ここが現実であると言い聞かせるように、片手で目元を覆う。
 「(久しぶりに見たな……)」
 いつもの夢だった。
 轟音、閃光、炎、そして凄まじい衝撃。「彼女」を襲うあらゆる暴力。間に合わない無力な自分。
 ──そして、目に焼き付いた最期の笑顔。
 「夢」ではない。夢だったらどんなに良かったか。だがそれはたしかにあった「過去」だ。
 「…………はぁ」
 深呼吸ではない、口をついて出たのは、何のため息だったのだろう。
 時刻を確認すると、時計は朝5時前を指していた。予定より随分早いが、寝直す気にもなれず、クリフは起き出して支度を始める。
 嫌な汗で張り付いたシャツは気持ちが悪い。両親を起こさないようにだけ気をつけながら、二階の自室を出て階段を降り、浴室へと足を向けた。
 「(……奈落花)」
 だるい身体を急かして歩を進めながら、クリフは痛みの残滓の名前を、心の中で反芻する。
 あんなに大切だった。かけがえのない少女の名前。今は、心の中で呼ぶだけで鈍い痛みを持ってくる。

 ……得ると言うことは、いつか失うと言うことだ。そんなことは、UGN所属の人間となったとき、言われずともわかっていたはずだった。
 だが、理解と実感の間にはこんなに深い深い溝があることを、誰も教えてくれなかった。

 奈落花に会えたことが、悲しい思い出のはずがないのに。それなのに、反射的に思い出すのは、いつも失うあの瞬間のことばかりだ。
 心の内側に入れたものを失うのが、こんなに恐ろしいとわかっていたなら。いっそ得ない方がよかった、なんて──
 「……何考えてんだ、俺は」
 考えた瞬間、思わず自分自身で吐き捨てた。
 まただ。奈落花に恥じない在り方をする、それができると証明すると誓った。なのに、自分はまだ「ここ」に立ち尽くしている。

 わかっている。こんなことではいけない。
 奈落花はもういない。誰も奈落花の代わりにはなれないし、彼女と同じ人間は、これまでもこれからも存在しない。
 でも、だからこそ、この心の空虚は誰にも埋められない。この気持ちは、抱えたまま進まなければならない。
 それがこの数年で、痛いほどにわかってしまった。

 今後、もう一つ大切なものを増やしたら、また失った時こんな空虚が生まれるのだろうか。今は、それだけが怖い。
 そんなことを考えたとき、ふいに頭の中に浮かんだのは、なぜか菜乃花の笑顔だった。
 「なんで……」
 無意識に、小さくつぶやいた。浴室の壁を、軽く拳で叩く。八つ当たりのような自分の挙動が、また空しい。
 もう何も要らない、と、クリフは切実に思う。
 「(このまま、何もかもやり過ごせたらいいのに)」
 これ以上、もう何もいらない。だから、これ以上なにも奪わないでほしい。
 自分も傷つかず、出来る限り誰も傷つけずに、生きていければそれでだけで。
 敵を屠るためにこの力が必要なら、そのときは迷ったりはしない。組織に所属する人間として、よっぽどのことがなければ命令に背くつもりもない。

 だからどうか、と。
 誰に願っているのか、願えばいいのかもわからないまま、クリフはそう願うことしか出来なかった。
 カーテンを引いたままの窓からは、まだ朝日は見えない。
 
* * *

 暖かい日差しが降り注いでいた。時刻は昼前。これからまた昼食を取り、昼過ぎからは訓練、というスケジュールだ。
 結局あれから寝なおすことも出来ず、クリフは今日も、一人で頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 こうしていると、たいてい彼女がやってくる。どこでどうやって見つけてくるのか、場所を変えたってクリフのもとへ駆け寄ってくるのだ。
 「クリフくーん! 今日も訓練一緒だね!」
 考えた傍から、軽い足取りで菜乃花がやってくる。ちら、とそちらに視線を向けたクリフだが、すぐに視線を窓のほうに戻す。
 あんな夢を見た後だからか、今日はいつも以上に、相手をする気が起きない。
 しかし、菜乃花はそんなことを気にする様子もなく、いつも通り満面の笑みで話しかけてきた。
 声で、仕草で、態度で。全身で、「クリフと話せて嬉しい」と示しながら、ただただ、そこにいる。
 雪の降る窓を、辛抱強く眺めるように。春の訪れを、しんしんと、聞こえない音を聞きながら待つように。ずっとここにいるから、と言うように。
 ……それが、決して嫌ではない自分もここにいる。

 「あのねクリフくん! 実は……私、今日誕生日なの!」
 そんなクリフの思考を知らず、菜乃花は上機嫌でそう切り出した。
 普段から元気はいっぱいだが、今日は一段とはしゃいで、少し身を乗り出しさえしている。
 「(今日……って)」
 クリフはふ、と、手元に置いたスマートフォンに視線を落とす。
 表示された日時は「四月一日」。エイプリル・フールだ。暦上も、そして人々の意識の中でも、世界はすっかり春になっていた。
 窓の外には温かな日差しがあふれ、桜の花は満開を過ぎて散り続けている。鴇のような色の──淡いピンクの花弁が、絶え間なく舞っていた。
 
 ああなるほど、いかにも菜乃花らしい「嘘」だ。クリフはそう思った。
 誰も傷つけない、友達同士なら笑い合える他愛のない嘘。私、今日誕生日なんだ、なんて。
 
 「ね、ね、だからクリフくんにもお祝いしてほしいなー」
 わくわくと、そんな擬態語さえ目に見えそうなほど弾んだ声が、背中側から聞こえてくる。目を逸らしているから表情は見えないが、きっとプレゼントを開ける前のように明るい表情をしているのだろう。

 能天気な声。まるで春の嵐のように、温かな朝の日差しのように。
 優しく、善良で、温かで。笑顔を絶やさず、人を疑わず、敵を憎まず、絶望を知らない。
 だから何かにつけて、こんな自分にかかわろうとする。何度も何度も、開かない窓を叩いて、呼び掛けてくる。
 彼女はきっと諦めない。今日も、明日も、明後日もだ。クリフが今日窓を開けないなら、明日またやってくればいいと言うだろう。

 ……そう思い至ったとき、だめだ、と思った。

 「それでね、クリフくんの……」
 菜乃花の次の言葉を待たず、クリフは机を強めに叩いて立ち上がる。
 窓に向けていた視線を菜乃花のほうへ戻すと、さすがにびくり、と、菜乃花は身体を震わせた。ずきりと胸が痛んだ気がしたが、無視する。無視するために、再び視線を逸らした。
 「(これ以上はだめだ。これ以上踏み入らせたら)」
 同じ轍を踏むことになる。出会えば、得れば、失う日が来てしまう。
 「もういいだろ、話しかけられたくないんだ」
 そうなる前に、離れなければならない。クリフは、これ以上傷つかないために、これ以上得てはいけないのだ。
 クリフはぐっ、と何か冷たいものを飲み込むような気持になりながら、息を吸って、吐く。
 「お前だって、とっくにわかってるんだろ。そうじゃないならいい加減、わかれよ」
 今朝見た夢が、警告のようにリフレインする。願ったことが、脳裏に翻る。
 心は冷え切っているのに、頭は熱に浮かされたように熱い。
 「エイプリルフールだのなんだのって話題なら、他の奴とやれ。……お前なら俺以外でも、いくらでも友達だって出来るだろ」
 熱に突き動かされるように、そこまで一気に言葉にする。そして息を吐いて、もう一度、最後に菜乃花のほうを見た。
 「……えっと……ごめんね……」
 菜乃花はクリフのほうをまっすぐ見て、力なく──それでも、微笑んでいた。そして、やりすぎちゃった、と、小さく言葉を続ける。
 その笑顔がどこか消え入りそうなものに思えて、クリフは思わず口をつぐんでしまった。
 「私、ついはしゃいじゃって……お友達に、誕生日をお祝いしてもらうの、夢だったから」
 ほら、私、入院してたし。菜乃花は続けてそう言った。
 「そうじゃなくても、今は春休みだから……だから、同年代のお友達におめでとうって、言われたことなくて……クリフくんを怒らせるつもりはなかったの。だから、ごめんね」
 胸の前でそっと手を組んで、祈るように、懺悔するように菜乃花は続ける。

 菜乃花のごめんね、という言葉を、クリフは久しぶりに聞いた気がした。あの日──病院に菜乃花を迎えに行ったあの日、人混みに流されそうになった彼女を助けたとき、クリフにそう言って謝って以来だ。
 あのときクリフはこう言った。謝るな、お前が悪いわけじゃないんだろう、と。

 「お昼、一緒にと思ったんだけど……今日はやめとくね。クリフくん、またあとで」
 はっとして菜乃花の顔を再び見たとき、菜乃花は再び、いつもの明るい笑顔を浮かべていた。儚さも脆さももう、嘘のように消えている。
 そして踵を返し、菜乃花はクリフの前から歩き去っていった。
 軽い靴音が規則的に響く中、クリフは茫然と、冷えていく頭を感じながら立ち尽くす。
 「ああもう、俺は……なにやってんだ」
 そうして、完全に菜乃花の背中が見えなくなってから、思わず頭を掻いて唸った。

 傷つけたということだけは確信できた。
 菜乃花が嘘なんてつく人間ではないことくらい、もうわかっていたはずだ。それくらいの時間は一緒に過ごしてきた。
 なのに、どうしようもなく焦り、頭に血が上って、あんなふうに傷つけてしまったのは──クリフが傷つきたくなかったからだ。

 これ以上何も、自分から奪わないでほしい。何も要らないから──何も与えないでほしい。

 「(だからって、自分が傷つかないために、あいつを傷つけて……そんなのは、違うだろ!)」

 少なくとも、あんな笑い方をさせるのだけは違う。奈落花に恥じない在り方を証明するためならば、それだけは違う。
 だって奈落花は、人の笑う顔が好きだと言っていた。自分だけでもクリフだけでもない……たくさんの人の笑顔が好きだから、守りたいと言っていたのだ。
 あの一瞬、傷つけられたのは彼女のほうだっただろうに、それでも菜乃花は笑った。大丈夫だよ、というように、「またあとで」と言い添えた。
 ……自分が傷ついた顔をしたら、泣きそうな顔をしたりしたら、きっとクリフのほうが傷つくだろうと思ったから。
 
 五感を研ぎ澄ませ、彼女の靴音を探しながら、クリフは気が付けば駆け出していた。
 
* * *
 
 菜乃花の姿は幸い、すぐに見つかった。
 支部の屋外、建物の影になる小さな花壇に、菜乃花はちょこんと腰かけていた。膝の上におひさま色のランチバッグを乗せて、ぼうっと、散り続ける桜の花を見上げていた。
 亜麻色の髪が、桜を散らす風に揺れている。
 「菜乃花!」
 姿を見つけるなり呼びかけると、菜乃花はすぐにクリフのほうを見て立ち上がった。
 「……クリフくん? どうしたの、そんなに走って……」
 「悪かった」
 クリフは菜乃花の前まで駆け寄ると、菜乃花が何か続ける前に、短くそう言って頭を下げた。
 言われた方の菜乃花は、目を見開いてから、ぱちぱちと目を瞬いている。まさか、こんなにすぐ謝りに来るとは思っていなかったのだろうか。それとも、謝られた意味がわかっていないのか。
 「誕生日、なんだろ。……あんな言い方して、悪かった。その……おめでとう」
 改めてクリフがそう続けると、菜乃花はようやく、小さく頷いた。
 そしてしばらくクリフを見つめていたが、やがてふんわりと、心の底から嬉しそうに目を細めて笑う。
 ……花が開くことを綻ぶというが、人の表情もこんな風に「綻ぶ」ものなのだと、クリフはこのとき初めて実感した。
 「ありがとう、クリフくん。すごく嬉しい。素敵なプレゼントまで貰えて、びっくりしちゃった」
 「いや、プレゼントなんて、俺は何も……」
 クリフが困惑していると、菜乃花はぶんぶんと首を横に振る。
 「今、菜乃花って。名前で呼んでくれたよ」
 だからすごくうれしいと、菜乃花はもう一度嚙みしめるように言った。目には見えないとても大切なものを受け取ったかのように、胸元に両手を添えて、ぎゅっと抱きしめる。
 「それは……そんなので……」
 「そんなのじゃないよ、すごく嬉しいもん。初めて会った日以来だよね、名前呼んでくれたの。ね、よかったら、これからもそう呼んで」
 お願い、と菜乃花は続けた。
 「…………」
 クリフは押し黙る。ずきり、ずきりと胸の奥には変わらない鈍痛が潜んでいた。
 ……これ以上、もう何もいらない。だから、これ以上なにも奪わないでほしい。何かを得れば失う日がやってくる。そういう警告めいた胸の痛みだ。
 窓を開け、この暖かさを迎え入れたら、いつかまた失う痛みにあえぐことになる。
 それでも────
 「ね、いいでしょう? それでね、よかったら、クリフくんのお誕生日も教えて」
 クリフのために笑い、駆け寄ってきてくれるこの少女は、春の嵐のようでいて、時に朝の日差しのように温かい。
 しっかり窓を閉じて見ないふりをしても、毎朝変わらず、柔らかで温かな光をくれる。

 失う痛みとともに、出会いの歓びはこの世界にまだあるのだと、思い出させてくれる。
 出会いの季節を連れてくる。

 「……わかったよ」

 やっとそう答えたクリフの頭上では、桜の花びらが散り続け、足元では菜の花が満開を迎えていた。
 
* * *

 ふいに意識が引きあげられる感覚がした。頬や体に降り注ぐ温かい陽光を感じる。暖房の強いぬくもりではない、自然の穏やかな熱だ。
 うとうととして、何か短い夢を見た気がした。短すぎてよく覚えていないが、悪い夢ではなかった気がする。
 「クリフくーん? 寝てるの?」
 浮上しかけた意識を抱き寄せるように、明るい声がクリフを揺り起こした。それに応えるべく目を開けると、一気に窓の外から陽光が差し込み、クリフは思わずまぶしさに目を細める。
 「おはよう。お昼寝なんて珍しいね、寝不足?」
 そんなクリフの眩しさを優しく遮るように、菜乃花がクリフを覗き込んでいた。影になった彼女は今日も笑っていて、クリフに会えただけでやたらと嬉しそうな顔をする。
 「あぁ……なんか、心地よくてついな。うとうとしてた」
 「最近すごくあったかくなってきたもんねえ。すぐ夏になっちゃうね」
 そうだな、とクリフは相槌を打つ。
 
 ……季節は春を過ぎ、夏になっていく。奈落花を失った過去が変わらなくても、胸の中に空いた空虚が埋まらなくても。
 桜の花がいくら惜しまれても散るように。
 
 けれど、そのことが、以前よりも痛くなくなったのは、彼女が傍で笑ってくれているからかもしれない。
 
 「ねえクリフくん、いい夢、見れた?」
 「さあ、どうだっけな……忘れちまったな」
 小首をかしげて尋ねた菜乃花に、クリフは微笑んでそう返した。

 はっきりと覚えてはいない。うたた寝の間にほんの少し見た、春の日の夢。あるいは思い出。
 ……奈落花のあの夢を見なくなったのは、いつからだったか。その境目には、彼女がいたように思う。
 春の嵐のように、明るく騒がしく、軽やかな少女。龍巳クリフの、久方菜乃花に対する印象は、概ねそういうものだった。
 春の日の、朝の陽差しを思わせる温かな笑み。一面に咲いた花を揺らす風のような、賑やかな声。
 彼女は笑顔を絶やさず、人を疑わず、敵を憎まず、絶望を知らない。まるで春一番のように、予告なくやってきてはクリフを振り回す。

 そうして、ぴたりと閉じた窓越しでも、もういいよ、もう春だよと。雪解けの季節を連れてくる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です