早咲きの叡智
桜本咲乃とアベールの過去話。
咲乃とアベールが出会って婚約するまでの経緯など。
彼と出会うまでの桜本咲乃の人生は、おおよそ、その半分以上が「悔しい」で出来ていた。
「(悔しい)」
一人、ベッドに横たわって、窓の外を見ながら、拳を握る。朝焼けを見て、青い空を見過ごして、夕焼けを見る。ただそれだけの毎日。
咲乃は生まれつき、身体の弱い性質だった。大病を患うことは無かったが、呆れるほどに虚弱だった。歩けばすぐにへたり込んだし、体力もなく、一時間と同じことは続けられない。
FHの名門、優秀なエージェントを輩出してきた桜本家に生まれた者として、その性質は障害でしかなかった。
両親は早々に咲乃を自室のベッドに押し込め、何一つ小言も言わない代わりに、何一つ期待することもない。
……それでも、放り出したり、養育を放棄したりしなかっただけ、優しい両親だったと思う。
ご息女があれでは桜本家は「大変」だね、と口さがない噂を流されていることはわかっていた。桜本は歴史が長い分だけしがらみもあり、恨みも買っている。弱ったら狙われ蹴落とされるのがFHの競争社会だ。親からも周りからも、疎まれている自覚くらいはあった。
それでも、咲乃は物心ついた頃にはすでにオーヴァードだった。そこはさすがFHの名家の生まれ。かなり早い段階での覚醒だったらしい。
これで身体もすっかり丈夫に! ……とでもなれば、生粋のFHたる両親は安心だったのだろうが。残念ながら、全くそんなことは無かった。目覚めたのはオルクスとソラリスのシンドロームで、身体が丈夫になる要素はゼロ。
また両親は肩を落とした。ついでに咲乃自身もがっかりだった。
世の中には、びっくりするほど身体が丈夫になる、キュマイラやエグザイルみたいなシンドロームもいるのに。オーヴァードになった瞬間、虚弱体質が嘘みたいに治る人もいるのに。せめてノイマンにでも覚醒していたら、「体は弱いけど頭はいいんです!」と自分を誇れたかもしれないのに。
咲乃はそのどれでもなかった。とりあえずレネゲイドは悪魔だ。それ以外にしては意地悪が過ぎる。
それでも、いくらか年を重ねたのと、覚醒したことで、少しだけ身体も丈夫にはなった。
咲乃は動ける時間を使って、医療や薬に関する知識だけは、出来る範囲で勉強することにした。
ソラリスの力で痛み止めを作って自分で使ったり、オルクスの因子で環境を整え、動物を操って補助を頼んだりして、出来る限り自力で動けるように努力をした。
その甲斐あって。基本禁止だった外出が、条件付きで許可されるようになった。……そうしたら、両親の関心は他の兄弟に向いた。もう一体どうしろと。
「もう一人でも大丈夫でしょう。やりたいことがあれば、好きにしなさい。それがFHと言うものよ」。
外出許可が出たその日にそう言われたのは、親の愛ゆえではなく、無関心からの放任宣言だろう。
ただただ、窓の外、遠くに歩く人の影を見る。飛ぶ鳥の声を聴く。そんな日々は終わりを告げたが、本質は何一つ変わらなかった。ただ、世界に付いていた窓枠が取れただけのことだった。
「(悔しい、悔しい、悔しい)」
他人が簡単に出来ることが出来ない。自分がやりたいと思うことが出来ない。
歩いて、走って、行きたい場所へ行くこと。欲しいと思うものを手に入れるために、働くこと。家族、友人、大切な人と、時間を忘れて語り合うこと。
そのどれもが、咲乃にとってはいまだ、酷く難しいことだった。
このままでは、近いうちにロイスを失う。オーヴァードですらいられなくなるだろう。
とある人物に、そう警告されたこともある。でもだからといって、どうすればいいのだろう。
……いっそ全てを失ってジャームになれば、この身体は言うことを聞くようになるだろうか。
なにもかも上手くいかない。何も与えられない。何も手に入らない。欲望も希望も、持つ余地さえない人間はどうすればいいのか。
こんな人生、始まる前に終わっている。
身体が弱いのはあたしのせいじゃない。あたしがFHなのも、あたしのせいじゃない。あたしが決めたことじゃない。
頬のあたりに硬くて冷たい感触を感じながら、朦朧とした頭で、咲乃はそんな恨み言をひたすら考えていた。
油断した。ペースを考えず、無理をし過ぎたらしい。街に買い物に出かけた途中、突然ぱったりと倒れてしまったのは覚えている。
熱中症か。疲労か。それとも、ついに致命的なガタが来たのか。
「(くそ、まだ一時間くらいしか歩いてないのに。怪しい通販商品より粗悪品か、あたしは。クーリングオフしてやりたい)」
この場合、クーリングオフ先はどこだろう。両親か。いやでもクーリングオフするには時間が経ちすぎてるか。
「(馬鹿なことを考えている場合じゃない。本当に死ぬかも)」
とはいえ、助けを呼ぶにももう身体は動きそうもない。動物たちに頼むにしても、人語を喋れないので医者も呼べないだろう。
それでは、やはりこのまま死ぬのだろうか。そういえば、怪我はリザレクトするが、病気とか過労死とか、疲労がたたって、とかだった場合はどうなるのだろう?
咲乃のレネゲイドは宿主の虚弱体質もほったらかしのニートだ。今だけ都合よく助けてくれる、なんてことはなさそうだし。
周囲の音がどんどん遠くなる。それでも、突然街中で倒れた咲乃を群衆が立ち止まって見ているのはわかった。
なんにせよ、こんなままで――こんな悔しい死に方で死ぬなんて。冗談じゃない。死ぬにしたってもうちょっとマシな死に方がいい。せめてジャームになって、健康になれるか試してからとか。
いずれにせよ。
「……死んでたまるか」
そう呟いたのは、ほとんど無意識だった。歯を食いしばって、なんとか寝返りをうつ。太陽の光。目に痛いほど青い空。ざわめく群衆の影。
その中に、一つ、ひときわ大きな人影が近づいてきた。背の高い男性だった。男は無言で咲乃の頬や目に触れながら、何かを調べている。
何、変態? ……とも思ったが、医療知識をかじっていたおかげで、それが医療行為であることがわかったため、何も言わないことにした。
「いい覚悟だ。患者がそうでなければ、助かるものも助からぬ」
独り言のように、男は呟く。低い声はなぜか安心した。瞬きを何度かすると、ぼやけていた視界が一瞬、クリアになる。
……目に入ってきたのは、白銀の髪と琥珀色の瞳。美術品のような顔をした男が、こちらを見下ろしていた。
「安心しなさい。君は生きているし、死ぬこともない」
晴れた冬の朝の空気のように、その声も指も冷ややかで。けれど、熱を持った体には心地よかった。
次に目を覚ましたとき、咲乃は病院のベッドの上にいた。確認すると、倒れた街から一番近い病院で、両親にはすでに連絡が行っているとのことだった。
咲乃を助けた男は、アベールと言った。アベール=クリューツ。名前の通り外国人で、最近母国のドイツを離れ、日本の病院に就職したらしい。
つまり、強運なことに、咲乃が倒れたあの場には医者が居合わせたのだ。咲乃はそのまま検査入院となり、アベールもそのまま咲乃の主治医となった。
「特に致命的な問題はない。問題があるとすれば、君が呆れるほど虚弱だ、という一点に尽きる」
診察を終え、カルテに何か書き込みながら、白衣のアベールは呆れ顔で言った。咲乃もため息をつく。
「……よく言われる」
「改善するつもりはあるか?」
カルテから顔を上げることもなく、アベールはそう咲乃に尋ねた。咲乃はムッとしてアベールを睨む。
「当たり前でしょ、改善できるならしてる」
「では、そうしなさい」
返事は即答で返ってきた。アベールはようやくカルテから目を放し、咲乃の目をまっすぐに見つめる。
「まずは出された食事をしっかり摂りなさい。そして、私の指示には正確に従うように」
有無を言わせない口調と、圧倒的な美貌を真正面から受けて、咲乃は無意識に「はい」と答えていた。
アベールは、医者としてもかなり優秀だった。というか、完璧だった。
咲乃の診察、検査、体調管理、食事・運動を含めたあらゆる指導に加え、一般的な医者としての仕事もこなす。背中にも目が付いているのではないかと思うほど、視野も広い。そもそも、外国人なのに日本語も完璧だ。
天は人に二物を与えないというが、この男に大半を与えた結果、他に行き渡らなかったのではないか、と咲乃は本気で思っている。
「(ああいうの、天才って言うんだろうな)」
自分も、ノイマンだったらあんな感じになれたのだろうか、などと思いながら、咲乃はため息交じりに鉛筆を滑らせる。
課題として、学校から出された算数ドリルだ。身体が弱すぎて、ロクに通えてもいないが。これも、ノイマンだったらすらすら解けたのだろう。
「何をしている?」
噂をすれば影、というやつで、ちょうどアベールが病室のドアを開けて入ってきた。咲乃がサイドテーブルにドリルを広げているのを見て、眉を顰める。
「勉強。学校行けてないから。起きれるときにやらないと」
「根を詰めるとまた倒れるぞ」
「でも、やらないと置いて行かれるでしょ。それは悔しいし、絶対負けたくない。全部自分のためだから。誰も代わってなんかくれないし」
「……成程」
アベールは最近、咲乃のペースメーカーも兼ねるようになった。咲乃も自覚はあるが、集中するとついついやりすぎてしまう癖がある。それを止めてベッドに放り込むのが、業務に加わっただけのことだ。
そういうアベールはいつ寝ているのだろう、と咲乃は思う。偉そうに咲乃の体調に口は出すが、自分のことは棚上げなのだ、この医者は。
そろそろ強制終了させられそうだな、と思っていると、すっ、と長い指がドリルの一点を指した。
「間違えている。解き直しなさい」
「……あっ」
書き込んだ答えの部分をトントンと叩きながら、
「そのページが終わったら休みなさい。一時間休んで、熱が出ていなければ続けて宜しい」
またカルテに何か書き込みながら、アベールはそれだけ言って踵を返した。
……それからほどなくして、咲乃は検査入院を終えて退院した。
通院は続けることになり、気付いたらアベールは主治医と家庭教師を兼任するような形になっていた。虚弱な体質を少しでもマシにするための指導、と言う体だ。具合が悪いときは往診で、通えるときは通院のように通いながら。二人の妙な関係性は続いた。
親としては色々楽なので、任せきりにしているらしい。治療費や教育費に関しては、きちんと払ってくれているようなので、そこはありがたいが。
「背筋が曲がっている。しゃんとしなさい」
氷柱のような叱責が、容赦なく飛ぶ。
「はぁい」
「返事をする気があるのなら、もっと相応しい返事をするように。やり直しなさい」
「かっ……かしこまりました……」
適当に流そうとしたら、さらに切れ味のいい声になる。
言葉遣い、立ち振る舞い、一般常識、一般教養、テーブルマナーエトセトラエトセトラ。
普通に学校に通えていれば、咲乃はまだ小学生の年齢である。そんな少女に、なんでそんなところまで? と言う分野もだ。もちろん学校の勉強も指導が入る。
「間違えている。やり直しなさい」
「不合格だ。もう一度」
「落ち着きを持ちなさい」
「言葉遣いが乱れている」
「指先まで気を抜くな」
小言、小言、また小言のオンパレードだ。厳しい。とてつもなく厳しい。
勉強も作法も一般常識も、間違えれば正解するまでやり直しが続く。そして、どの分野も一定の水準まで出来るとわかったら、容赦なく次のレベルを課された。
「それは小学生の学ぶ範囲ではありません」などと言おうものなら、「そうだが、何か問題が?」と冷ややかな微笑と声が返って来た。もう二度と、教育方針に対しては苦言など呈すまい、と心に決める。
そしてたぶん、今までただの一度も褒められたことが無い。その一方で、咲乃の体調管理については倒れないよう、完璧に計算されている。そこがまた恐ろしい。
「鬼……スパルタ鬼教師っ……です」
「何を言っている? 歩くときに足下を見るな。淑女が俯くのではない」
定期健診の帰り。久々に訪れた病院でも、アベールは容赦なく小言を浴びせかけてきた。自分でもだいぶ色々様になってきた、とは思うが、アベールの掲げる及第点には程遠いらしい。
ぐぬぬ、と、咲乃はまた淑女らしからぬ呻き声を上げながら、アベールを見上げる。
まだ小学生の年頃の彼女にとって、成人しているアベールはそびえ立つ山のように大きい。しかし不思議と、威圧感は感じなかった。もう一緒にいるようになって数年経つので、慣れてしまったのかもしれない。
「ですが、足下を見なければ、躓いてしまいます」
「この程度で躓いているようでは、まだまだだな。君が本当の淑女になれば、より踵の高い靴を履くようにもなる。そうなったら、今のままではまともに歩けまい」
「ぐあっ……そ、そんなことを言ったって、階段や段差を降りるときはどうすれば良いのです? 足元を見てはいけないのなら、躓くどころか転げ落ちてしまいます! まさか、生涯エレベーターしか乗るなと?」
綺麗に清掃された院内を歩き、エントランスに続く階段にたどり着く。結構長い階段で、これを俯かず降りるなんて不可能だ。
「そんなことか。こうすればいい」
アベールは心底「つまらないことを尋ねるな」とでも言いたげな表情と声で言いながら、少し早足に咲乃を追い越し、階段を数段降りた。そしてそのまま、下段から手を差し出す。
「なんのためにエスコートなどと言う文化があると思っているのだ、君は」
眉を顰め、ため息交じりで、アベールは言う。決してロマンチックな物言いではなかったが、それでも咲乃は顔が熱くなった。その顔、その美貌でそういうことをするのは、もはや反則行為だ。
咲乃が差し出された手の上に自分の手を乗せ、そうっと握ると、そのまま手を引かれ、ゆっくりと階段を下りていった。確かに、これなら足下を気にしなくても降りられる。
酷くゆっくりと、咲乃の代わりに咲乃の足下に気を付けながら、アベールは階段を降りていく。
何年も面倒を見てくれているアベールは、咲乃の歩くスピードを知り尽くしている。全く危なげのない足取りだった。
「……何事も一人でこなそうとするところは、君の美点だと思う。だが、時と場合によっては非効率的だ。今のようにな」
…………ん? と咲乃は、言われた言葉を即座に吟味してから、思わず目を見開いた。
「今。大変分かりにくい物言いでしたけれど、『一人で頑張る姿勢は素晴らしいが、たまには私に頼るように』と仰いまして?」
「そうだな、だいたい相違はない」
「全然! わかりません! なんですか、その高難度の読み取り!? わたくしでなければ絶対正解出来ませんよ! わたくし、今褒められたのですよね!?」
褒められたのだと思う。アベールから生まれて初めて褒められた。
いや、今までも気づいていなかっただけで、褒められていたのかもしれないが、今初めて気づいた。いやそれにしたってわかりにくすぎる。
「アベール様、それでは褒められたとわかりません。褒めるのであれば、もっとちゃんと褒めてくださいませ。今までも、わたくしだからよかったようなものの、それでは他の子供は泣いてしまいます」
「私は小児科の医師ではないので、問題はない」
「問題しかありません! 宜しいですか? アベール様はただでさえお顔や態度に威圧感がおありなのですから、下手をすると、中学生や高校生でも泣いてしまいますっ! 毎朝鏡をご覧にならないのですか? その美貌で氷柱のような言葉を吐かれたら、並みの人間は凍りつきます! お願いですからご自覚くださいませ!」
「わかったから、もう少し声を抑えなさい。まったく淑女らしからぬ」
本当にわかっているのかと、結局その日の咲乃は、病院から出るまで問い続けた。
さすがにそこまでされるとアベールも反省したのか、これ以降、少しわかりやすい褒め言葉が増えることになる。
* * *
そんな生活がずっと続くと思っていたし、少なくとも、そんな劇的に変わることは無いと思っていた。
しかし、いつでも人生とか運命とか言うのは空気を読まない。主役であるはずの咲乃を置いてけぼりにして進んでいく。
また数年が過ぎた。咲乃が中学生になって、そう時間の経たない春の日こと。
夕食の時間をとうに過ぎたころ、咲乃はアベールの家の扉を叩いた。
「アベール様。……夜分遅くに、申し訳ありません」
出迎えたアベールは、一瞬驚いた顔をした。しかし、すぐに渋い顔になる。
「……どうしてこのような時間に。非常識な」
「申し訳ございません」
咲乃は重ねて謝罪して、頭を下げた。
言うまでもなく夜は遅く、中学生が出歩いていい時間ではない。いつもなら、こんなことをすればもっと厳しい叱責が飛ぶ。しかし、彼はそれ以上、何も言わなかった。
「……入りなさい。このような時間の訪問は褒められたことではないが、そのようなところに立っているのも、褒められたことではない」
はい、と小さく答えて、促された通り家に上がった。
アベールの家は広いが、あまり生活感がない。咲乃にとっては勉強を教わりに来たり、テーブルマナーを学んだりした第二の家のようなものだ。
しかし、アベールはどうだろう。咲乃との用事がなければ、病院に泊まり込むことが多いらしい。もしかしたらあまり自宅という認識もないのだろうか。
……咲乃がこの家を訪れなくなったら、アベールも帰って来なくなるのだろうか。
アベールが淹れてくれたお茶を飲みながら、ふとそんなことを考えた。それは少し、いや、だいぶ心配だ。
「それで、何があったのだ」
自分もお茶を一口飲んで、アベールからそう尋ねた。咲乃はティーカップを降ろす。
言いづらい。しかし、言わなければならない。そのために、こんな時間でもやってきたのだ。
「わたくし、もう少ししたら、お会いできなくなると思います」
何度か言葉に詰まりながら、なんとかそう言った。アベールは驚いた様子もなく、しかし少しだけ返答に間をおいて、「そうか」とつぶやく。
「婚約、することになったのです。お相手はまだこれから決まるらしいのですけれど」
「…………それはまた随分と、気の早い話だ」
「実家の方針で。無駄に歴史だけはある家でして……今時珍しいとは、わたくしも思います」
苦笑いで、咲乃はそう話す。
今日は、両親に久々に夕食を一緒に摂らないかと呼ばれたのだった。その席で、婚約の話があると聞かされた。
桜本は代々FHを支える家の一つなので、政略結婚もあり得る。咲乃は身体が弱かったので、エージェントではなく、政略結婚の方の話が来たとのことだった。
アベールの教育のおかげで、淀みなく話せていた。しかし、何故か顔は上げられない。アベールがどんな顔をしてこの話を聞いているのか、知るのが怖かった。
「君の意志は尊重されないのか?」
「そんなことは……ありません。しかし、意志を貫くには、自分でなんとかせねばなりません。わたくしには……わたくしは、この通り弱いですから」
なんとか笑みを浮かべて、首を横に振る。自分を「弱い」と言った瞬間、思わず膝の上で拳を握ってしまった。
……そうだ。咲乃はまだ弱い。年齢的にも、親から離れられる年ではない。FHでもし親元を離れるのなら、それ相応の実力が必要だ。エージェントとしての教育は受けていないし、まだまだ身体も虚弱なままで、「普通に」自立なんていうのも不可能だった。
昔よりは丈夫になった。知識もついた。教養も。正しい立ち振る舞いも。常識も。でも、それだけだ。
「わたくしの……家では。弱いものは何も決められないのです。わたくしは……弱すぎて、自分のことを決める権利すら持たないのです」
悔しい。久々に感じた悔しさだった。
咲乃は弱い。欲望を持っても、希望を持っても、それを叶える力が無い。一人では立てない。
目元が熱くなってくる。嫌だなあ、泣いたりしたら、淑女が涙を見せるものではないとか言われそうだなあ、などと、こんなときでさえ思った。負けず嫌いの咲乃は、アベールの前でさえ泣いたことがない。
それなのに、彼にもう会えないと、自分が弱いせいでもう会いに来られないと言うときになって、泣きたくてしょうがないだなんて。
「わたくしは……悔しいです、アベール様。結局、一人では何も出来ない自分が悔しい」
欲望も希望も、持つことさえ出来ないと思ったあの日よりはいくらかマシだが、まだ足りないのだ。
あんなに頑張ったのに。あんなに教えてもらって、あんなに努力したのに。まだ足りない。何かを決めたり、何かに手を伸ばしたり。今あるものを守ることさえ出来ない。
もう少し時間があれば、必ず誰もが認める淑女になってみせる。あなたが誇れるくらいの私になって、どんな欲望だって、自分の力で叶えてみせる。
だけど、まだそうはなれない。
視界が歪んで、熱い涙が目じりから零れていった。ぽたぽたと、握りしめた手の甲に落ちていく。
「顔を上げなさい」
淑女であるならば俯くな、と、厳しい声がした。反射的に顔を上げる。その拍子に、まだ頬を伝っていた涙がぽたりと落ちて染みを作った。
アベールはまっすぐに咲乃を見ていた。いつも通りの、冬の日の朝を思わせる美貌だった。咲乃を憐れむでもなく、侮るでもなく。いつも通りの彼だった。
「つまり、君自身が望み、また家柄にも相応しい経歴の婚約者候補を選んで、ご両親のもとに連れて行けば、当面の問題は解決するのだな」
少しだけ考え込むように目を伏せて、アベールはそう確認した。咲乃が頷くと、さらにアベールは頷いて見せる。
「では君次第だ。選びなさい。……私を、君の婚約者にする気はあるか?」
「…………アベール様、それは」
思わず目を見開き、アベールの方へ身を乗り出した。
「言葉通りだ、咲乃」
咲乃の言葉を遮って、アベールが名前を呼ぶ。ちゃんと名前を呼ばれたのは初めてだったかもしれない。診察の時は名字だったし、それ以外は「君」だった。
「一人では何も成せないのは、私も同じだ。……だが、二人ならばあるいは、成せるかもしれぬ」
そういったアベールの声や言葉は、何か、痛みのようなものを含んでいる気がした。それをここで追及する気にはなれなかったし、アベールも答えてくれそうになかったが。
問題はそこではなく。
「しかし、良いのですか、そんな。わたくしの事情に、アベール様を付き合わせるだなんて」
「決めるのは君だ。私は問題ない。突然私が婚約者に、というのが不満であれば、そうだな……しばらく『共犯者』と言うことにしても構わない」
「きょ、共犯者……ですか」
アベールの口から出た「らしくない」……はっきり言えば不道徳的な言葉に、咲乃のほうがたじろいだ。こんな一面もあったらしい。
しかしアベールは涼しい顔をしている。
「そうだ。君が自分で決められるようになるまで。私が引き続き、君の傍にいて、露払いをしよう。もし、君が自立できる時期になり、より相応しい伴侶を選ぶ日が来たら、婚約を解消して構わない。……それとも、そう言ってご両親を騙すのは気が引けるか?」
アベールは少しだけ試すように微笑んだ。
あの両親を騙すのが、気が引けるか? 即答でノーだ。だから咲乃は首を横に振った。
すると、アベールはもう一度満足そうに微笑んで、咲乃の髪をひと房、すくうように手に取る。
……女性の髪にみだりに触れてはいけないと、あれほどうるさかったアベールが。
「では、やはり一番の問題は、君が受け入れてくれるかだ」
どうする、ともう一度探るように尋ねた彼に、咲乃はこくり、とつばを飲み込んだ。そして、ゆっくりと頷く。
「……はい。お受けします。アベール様」
アベールもその答えに頷くと、そっと、触れる程度の口づけを髪に落とした。
「大変結構」
咲乃がアベールの手を取る。笑顔を浮かべた拍子に、目じりに残っていた涙が零れていった。
……俯くな。前を向け、と、今日も呪文のように心で唱える。
もう二度と、私は下を向いたりはしない。衣装の裾を翻し、踵の高い靴を履き、とびきりの微笑を浮かべて。誰よりも洗練された振る舞いで、今度こそ、自分らしく生きるのだ。
彼のくれたこの叡智と運命が私の財産であり、味方であり、守るべきもの。もはや何一つ諦めたり、手放したりはしない。
早咲きの私には、立ち止まっている時間など、一秒もない。
彼に恥じない私でいるために、私は今日も咲き誇る。