6章【希望】
久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」
クリフは荒い息をつき、顔を上げた。疲弊し続ける体と心を、叱咤して奮い立たせる。
……何度も繰り返す、「あの日」の夢。繰り返し過ぎて、もう逆に現実ではないと確信できるくらいには繰り返した。
「ただの幻だって、百も承知だけどな……こうもしつこいと……」
堪える、という最後の言葉をなんとか飲み込む。たとえ夢だとわかっていても、何度も何度も突きつけられるのはきついものがある。
しかも、幻は妙に現実感があり、質量も感触も温度も錯覚させてくる。
そして、クリフしか見たことがないはずの、彼女──奈落花の最期の笑みまで、完璧に再現しているのだ。まさしく過去の再演。クリフの頭の中から直接、記憶を焼き増ししているようだった。
何度も、救えなかった過去を繰り返す。焼き付いた記憶と、寸分違わない喪失の情景。決して変わらない、変えてはならない、すでに終わってしまった事実。
お前には救えない、と何度も突きつけられている気がした。地獄にも種類があるというが、もし本当に存在するとしたら、間違い無くここがそのうちの一つだろう。
「くそ、はやく、目を覚まさなきゃならねぇのに……!」
菜乃花、と、現実に置いてきた少女の名前を呼ぶ。
夢現の中、なんとか目を覚まそうと足掻く中で垣間見た菜乃花は、酷く狼狽して傷ついた顔をしていた。
つい先ほど、死ぬのが怖い、大切な人と別れるのが怖い、と泣いていた。幾ばくも経たない間にこんなことになったのだ、当然の反応だろう。なのに自分を抱きしめ、逃げようとする素振りもなかった。
菜乃花には、クリフのような戦闘能力は皆無だ。巴が本気で菜乃花を攻撃したら、ひとたまりもないはずだ。先ほどは寸前で巴の手を払ったが、また夢に落とされて、今はどうなっているかわからない。
「(今度こそ、喪うわけにはいかない……! 菜乃花まで喪ったら、もう俺はこの先……)」
クリフが決意を新たにしようとも、お構いなしに夢は何度も繰り返す。焦りと共に、奈落花の最期に駆けつけるその場面から延々と。クリフ自身の衝動も「妄想」なので、こういった幻覚を見る類の現象と、妙に相性がいい可能性はある。以前、菜乃花を助けようと無茶をしたときも、自分は奈落花の幻を見ていた。
だからこそ、どうやって抜け出せばいいかは、なんとなくわかる。
こういった精神干渉や幻覚には、基本的に意志の力で抗うしかない。その影響を自身の意志が上回れば振り払える。
先ほど一瞬、現実に戻って来れたのだ。ほんの少し、あと少しだと、感覚ではわかっているだけに、もどかしい。その間にも、幼馴染の少女が避けられない暴力に、決まってしまった運命に消え去る光景が繰り返される。
────もう少し。もう少しだけ、頑張って、クリフくん。
そのとき、不意に耳元で、そう誰かが囁くのを聞いた。クリフは思わず顔を上げる。聞き覚えのある……少女の声だった。あたりを見渡すが、情景に変化はない。
クリフは以前も、同じように夢うつつの中、「頑張れ」と囁いた少女の声を聞いたことがあった。あのときは、自らが自己防衛のために生み出した奈落花の声だったはずだ。けれど、今回の声は奈落花のものとも違う。
「……菜乃花?」
聞き違えるはずがない。クリフが今、このとき守りたい少女の声だった。
クリフが『声』を認識した刹那、悪夢の世界がまるで静止画になったかのように時を止める。鮮やかだった世界から色が抜け、見る見るうちに白黒と灰色の世界に変わっていった。
悪夢の場面は、奈落花に攻撃が届く、その一歩手前で止まる。
──過去は変えられない。現実は変わらないし、変えちゃいけない。それは、今でもそう思うよ。
悲しげに、寂しげに、少女の声は囁いた。
……過去は変えられない。菜乃花が病気に苦しんだ過去も、クリフが幼馴染を喪った過去も、その事実、その傷と喪失は消えない。
でも、と。声はそこから、祈るように逆説を繋げた。
──でも、今と未来は変えられる。昨日がダメでも、今日も、明日もやってくる。大事な人の明日を守るために、この力を使う。それが正しいことだって、わたしは信じられる。
声だけで、少女の表情は当然見えない。しかしクリフにはその声の主が、かすかに微笑んでいるとわかった。優しく、少しだけ強がって、それでも花が綻ぶように。
それは春の盛り、どんな花よりも長く、強く、人に寄り添って咲く太陽色の花を連想させる。
……ああそうだ、とクリフは思う。
過去は変えられない。自分が奈落花を救えなかった過去も、喪ってしまった事実も、その形のまま残っている。けれど、今足掻くことは出来る。足掻いた結果、その未来は変えられる。
事実、かつて訪れた異世界でクリフは『間に合った』。
喪いたくない少女に向かって駆けて、その手は無事に届き、彼女の命は守られた。心と現実の境界があいまいなこの世界で、そのことは不思議なほど鮮やかな色彩を保って思い出せる。
──だから今度はわたしが、この力で、クリフくんの明日を守るよ。
菜乃花、と少女の名前をもう一度呼んだ瞬間、モノクロの世界は一気に眩しく輝き、白い光の中にゆっくりと飲み込まれていった。
* * *
激しい剣戟の音、何かが蒸発する音、土煙、荒い息遣い。
戦場に満ちる音が辺りを支配し、闇夜に三つの人影が躍る。そんな音に満ちた世界でも、菜乃花はそれが聞こえないほどに集中していた。ぽたり、と、そのこめかみから汗が滴るのさえ気づかない。
クリフと菜乃花、二人の周囲には、一見何も変化が無いように見える。だが、もしも【領域】を知覚できるオーヴァードがいたとすると、現実を捻じ曲げかねないその大きな揺らぎを感じ取ることが出来たかもしれない。
夜明けの遠い闇夜の中で、菜乃花は祈るように手を組んでいた。そして、心の中で呼びかけ続ける。
「(クリフくん、起きて)」
つい先ほど、彼に向って投げかけた「一生のお願い」を繰り返す。
「(──わたし、あなたに言わなきゃいけないことがあるんだ。どうしても言わなきゃいけないことが)」
これを伝えないで、お別れなんて絶対にしたくない。そのためには、二人とも生きていなければならない。
菜乃花は尚も目を閉じて、一心に願う。
もう一度こっちを見てほしい。……生きていてほしい。そんな願いを何度も思い描く。
【現実改変】もエフェクトの一種であるならば、その制御もほかのエフェクトと根本的には同じはずだ。自分の中にある力をイメージし、思い描き、菜乃花の【領域】の中で制御する。自分の中のレネゲイドに方向性を与え、常人には不可能な奇跡を起こす。
クリフが目を覚ますイメージを。目の前の現実さえ覆す祈りを。
「……っ……」
ぐらり、と、唐突に視界が傾いだ。
……平衡感覚が一瞬、喪失したらしい。酷い眩暈が菜乃花を襲う。それと同時に、激しい痛みが胸のあたりを貫いた。菜乃花は思わず自分の胸元を見下ろしたが、外傷はない。隼人と椿、そして巴が戦っている戦場は離れており、流れ弾が来るような距離でもない。
何より、この痛みには覚えがあった。いっそ懐かしい、激しい痛みと苦しみだ。ああ、そうだ。あの病院のベッドで、何度も襲われた痛みと苦しみ。本当は、菜乃花はこれに飲まれて死ぬはずだった。
「(この、何年かで……すっかり、忘れちゃったと思ったのに)」
菜乃花は痛みを少しでも逃がすために、ゆっくりと息を吐き、吸い込むのを繰り返す。意外なことに、痛みに耐えるための仕草を──死が迫りくる感覚を、菜乃花の体はまだ覚えていた。
「(だいじょうぶ。絶対に、大丈夫)」
それでも、菜乃花は心の中で繰り返した。かつて、両親や周りの大人を悲しませないために繰り返した言葉を、今度は自分のために。
この程度の痛みで挫けるわけにはいかない。見下ろせば、すぐそこに大事な人の顔がある。この人を救うのだ、自分のためにも。
祈れ。祈れ祈れ祈れ。それでこの希望(ねがい)が叶うのなら。
その代償がこんな痛みなら、きっと安いもののはずだ。
すると、ちょうど眠りに落ちる寸前のように、目の前の世界の認識が揺らいでいく。強固だったはずの現実が、ゆっくりと軟度を増して、飴細工のように捻じ曲がるイメージが頭に浮かぶ。
菜乃花はその感覚、感触を知っている。かつて、自分の命を永らえたときにも、この手に感じた感触だ。
……本来、壊れないはずのものを壊す感触。壊してはいけないものを壊していく感覚。本来誰にも触れられないはずの、精緻な作品に手を加えるような。それは間違いなく、酷い背徳だ。
触れてしまうことそのものに、生理的な忌避感がある。捻じ曲げてしまうことに、物理的な痛みと精神的な痛みが伴い続ける行為。
これが願いが現実に裏返る感覚、【現実改変】。絵空事を、現実に逆しませる力。
止まることのない不快感と痛みに必死に耐えながら、しかし菜乃花の感覚は、【現実改変】が動き始めていることを実感していた。
「……もう少し。もう少しだけ、頑張って、クリフくん」
そうやって祈っていた時間はいかほどだろう。菜乃花にとっては一瞬のようで、永遠のようでもあった。不意に、その手に爪の跡が残るほど強く組まれた掌が、するりと解ける。硬く閉じられていた瞼が開き、自分の膝に抱えたクリフの顔を見下ろす。その目はまだ、開かない。
菜乃花は深く息を吐いた。酷く眠いし、酷く怠い。全身に疲労感が纏わりついていた。視界と意識が霞む。
「……! 久方さん!」
遠くの方で、椿が菜乃花の名前を呼ぶ。霞がかった思考が、一瞬で現実に引き戻された。気が付くと、自分の座り込んでいる地面にヒト型の影が落ちている。
「──残念ですけれど、時間切れです」
肩越しに振り返る。
そこには、新月を背負って醜悪な笑みを浮かべる【マスターマインド】がそこに立っていた。そしてその手が、菜乃花の方へ伸びてくる。
椿と隼人の隙をついて、こちらへ間合いを詰めたのだろう。今、攻撃されたら菜乃花は絶対に避けられない。心臓は相変わらず激しく痛みを訴え、呼吸さえも上手くできないままだ。
死ぬか、生きていても【現実改変】の制御を喪って暴走し、ジャームになるか。最早何も、菜乃花に出来ることはない。それでも菜乃花が無意識に行ったのは、クリフの顔を見ることだった。
「ごめんね……────、」
そして口を開いて何事か言おうとするが、最後のほうは言葉にならず、吐息のまま吐き出される。それでも、言葉は届いたのだろうか。固く閉ざされていたクリフの瞼が、少し震えたように見えた。
「ッ……龍巳!」
彼を呼んだのは、隼人だった。一縷の望みをかけて張り上げられたその声に、彼は応える。
「っ!?」
ぐい、と、かなり強引に、菜乃花の肩を誰かが掴んで引き寄せた。倒れていく視界の端に映ったのは、燃えるように赤い髪をした少年の後ろ姿。
クリフが巴の無遠慮な手から菜乃花を遠ざけ、代わりに俊敏に起き上がった。そして菜乃花と場所を入れ替えるように前に出たのだ。
まさかこのタイミングでクリフが目を覚ますとは思っていなかったのだろう、巴が今度こそ不意をつかれ、本心から驚愕の表情を浮かべていた。クリフはごく浅く、一拍だけ呼吸を整えてから敵を見据える。頭の中で、先ほど菜乃花がクリフに囁いた言葉を反芻しながら。
──ごめんね……クリフくん、あと、お願い。
「……任せろ」
言うと同時、クリフは地面を蹴る。そして地面に刺さった日本刀━━夜闇に紛れるほどの黒い刃と柄をたたえたそれを強引に抜き放った。
これは隼人がこの公園へ駆けつけたとき、最初に投げて地面に刺さったものだ。
そして、完全にクリフの間合いまで入って来ていた天船巴を、その刃は過たず貫いた。
「がっ……!」
「……っ、失せろ、マスターマインド……! 俺たちの、勝ちだ」
くぐもった嗚咽を吐き出しながら血を吐いた巴に、クリフは言う。本調子など程遠い体調で、疲ればかりが窺えても、歯を剥いて敵意を持った瞳で敵を射抜く。まだいくらでも戦ってやるという強気な表情を見せるも、それは強がりに過ぎない。
だが、菜乃花が精いっぱい取り戻してくれた時間を、現実を、無駄にするわけにはいかない。
強がってでも、大切なものを奪おうとするものを、排除する。
ずるり、と日本刀を巴の身体から抜き放ち、二、三歩離れる。今すぐ振り返って菜乃花の無事を確認したいが、なんとかこらえた。代わりに耳を澄ませて、その背中に息遣いを感知するにとどめる。そしてクリフは油断なく刀を構えなおした。
「くっ、あ……は、はは……! あぁ、残念です……油断したのはわたくしのほう、ということですね。本当に……口惜しいこと」
巴は腹の中心──急所を穿たれながらも、不気味に笑っていた。そして、すぐさま傷口が血の色から黒に変わり、見る見るうちに崩れ出す。同時に、地面に落ちた血の一滴までも黒く染まり、それがぶわ、と夜空に飛び立った。
命の盾──虫などの小動物にダメージを肩代わりさせ、本体は逃げおおせるソラリスのエフェクトだ。
……やはり【マスタークラス】は簡単には倒せないらしい。だが、今回は撃退出来るだけでも御の字だろう。
「いいでしょう、今回は諦めましょう。あなたたちの勝ちです。でも、またいずれ──」
そこまで言ったところで、巴の口までもその黒い侵蝕が到達し、崩れ落ちて消えていく。クリフは「二度と来るな」と口の中で吐き捨てたが、巴には聴こえていないだろう。
ゆっくりと、巴の姿は闇夜に溶けるように消えていき、その最後の一点までも消えるのを確認する。
それと同時に、辺りの空気が音もなく緩み、ワーディングの解除もなされたようだった。そこにきて、やっとクリフは肩の力を抜いた。
「……菜乃花」
そして、地面にうずくまった菜乃花の名前を呼び、駆け寄る。菜乃花はまだ苦しげに肩で呼吸を繰り返し、胸の中心辺りを抑えていた。ぽたり、と、一つ額から汗がしたたり落ちる。
先ほどまで暑いほどだったのに、今はひどく寒い。これは冷や汗だ。
「クリフ、くん……よかった……目、覚めて……」
「しゃべらなくていい、じっとしてろ。すぐに支部へ連れて行く」
クリフが酷く真剣な表情のままそう言って、菜乃花を抱き寄せる。二人とも疲労困憊なのは明白だった。細かいことに気遣う余裕もないからこその行動だろうが、菜乃花はそれでも嬉しいと感じてしまう。
その温もりと息遣い、心臓の鼓動で、確かにクリフが生きているのだと確信できたからだ。
自分は、確かに無茶を通せた。大切な人を守れた。自分で決めた「正しいこと」を成せたのだ、とわかった。
それだけでいい、と今までの菜乃花なら思えただろう。この世界に大切な人が生きていてくれるだけで、その世界に自分も存在できているだけでいい、それ以上望むのは贅沢だ。望んではいけない。
でも、今の菜乃花にはまだ、望みがある。
「あのね……わたし、クリフくんに……言わなきゃ、いけない……ことが、あって」
だから息も絶え絶えに、菜乃花は言葉を紡ぐ。体と瞼が酷く重い。気を抜いたらすぐさま意識を失いそうだ。その前に、と心が急ぐ。
「あとで絶対に聞くから、今は無理するな」
クリフが止めるが、菜乃花はその言葉を聞いている余裕もない。ただ、頭と心に浮かんだその言葉を、彼に伝えたくてしようがない。
その暖かな頬に、手を伸ばす。触れると、クリフが不安と驚きの混ざった顔で菜乃花の顔を見た。
生きている。よかった。それが理解できる自分も、ちゃんと生きている。
これで、この人は悲しまずに済んだし、喪わずに済んだ。この人が悲しい思いをしなくて、未来に新たな傷を負わなくて、よかった。
菜乃花に、この世界にいてもいいと……いて欲しいと言ってくれた、男の子。
菜乃花の、希望(ねがい)そのもの。
「……好きだよ、クリフくん。いちばん、だいすき。だから……生きててくれて、よかった……」
……ああ、言えた。そう思った瞬間に自然と笑みが浮かぶ。菜乃花の方を見ていたクリフが、さらに酷く驚いた顔をしたのがわかった。
どうしてそんなに驚くんだろう、と菜乃花は不思議でならなかった。
だって菜乃花にとっては、そんなことはもうとっくの昔に、当たり前のことだったように思えたから。
一番大事な部分を伝えられた、と思えた瞬間、一気に眠気と倦怠感が増した。体と精神がもう限界だと言うように、菜乃花の意識をさらっていく。
「──! ────!!!」
クリフが何かを必死で叫んでいる。隼人と椿も駆け寄ってきて、菜乃花の顔を覗き込んでいた。
ああまだ、伝えたいことは残っているのに。なんでこんなに眠いんだろう。代わりに痛いのと苦しいのは、少しずつ和らいできているけど。
大丈夫だよ、ちょっと疲れただけ。ただものすごく眠くて。
そう言おうとしたが叶わず、菜乃花の意識はそのまま眠りに落ちていった。
* * *
……ふと気がつくと、白い部屋で白いベッドに眠っていた。
目を開けると、見慣れた白い天井が見える。個室の部屋は菜乃花だけしか存在せず、のろのろと視線を動かすと、窓が少し開いているのが見えた。開いた窓からそよそよと流れ込む風が、気持ちいい。白いカーテンが揺れて、その隙間から夕陽が差し込んでいる。
白をうっすらと夕日のオレンジが染め、見事な金色に輝く、奇跡の時間。
「綺麗……」
思わずそう、呟いた。そして直感する。ここが、「本来の」菜乃花があるべき世界だ。死ぬべき運命を、抗うことなく精一杯生き抜いた菜乃花の世界。その最果ての場所。不思議なことにいつもの夢よりも随分鮮明で、現実感があった。
『……欲しいものは、手に入った?』
ふいに、少女の声が菜乃花問いかけた。開いた窓から視線を動かすと、そこには『自分』が立っている。ただし、その身体は今の菜乃花よりも、少し背丈が小さい。手足の長さもいくらか短く、中学生くらいだと思えた。
おそらく、過去の……この病院から出られなかった頃の、菜乃花の姿を取っている。
「あなたは……」
誰なのか、と尋ねようとしたが、やめた。その正体にすぐに気がついたからだ。
夢の中で何度も菜乃花に問いかけてきた声。菜乃花自身の姿をとって、何度も「嘘つき」と叫んでいた彼女は、菜乃花の中の異能、レネゲイドなのだろう。
だから代わりに、菜乃花は少女の問いかけに答えることにした。
「……うん。わたしの夢、半分は叶ったよ」
『もう半分は?』
「それは、まだわからない。クリフくんの『返事』は、わたしが決められることじゃないもの。一生のお願いも、もう使っちゃったし」
正直にそう答えると、少女は少し考え込むように、小首を傾げた。そして、まるでとっておきの秘密を教わったばかりの子供のように無邪気に、こう続ける。
『それじゃ、あなたの欲しい『返事』じゃなかったら、『変えて』あげようか?』
「それはダメ」
少女の言わんとしたことを察し、菜乃花はきっぱりと断ってから首を横に振った。
『どうして?』
少女は不満そうに頬を膨らませた。菜乃花は自分と同じ顔なのに、その素直な仕草がおかしくて、つい声をこぼして笑ってしまう。
「だって、わたしは、クリフくんの本当の気持ちが欲しいんだもの。受け入れてくれても、そうじゃなくても。クリフくんの本心から言ってくれた言葉なら、いいなって思う」
『……でも、もしあなたの好きな人に好きって返してもらえなかったら、夢は半分しか叶わないままだよ。それでもいいの?』
菜乃花は少女の言葉に、少しだけ沈黙を返してから「そうだね」と答えた。
その未来は、確かに想像するだけで胸が痛い。実現してしまったら、きっと悲しくて涙が出るくらいには。
でも未来とは「そういうもの」だ。
未来は不確定に満ちている。可能性と同じ数だけの不安が、すべての人について回るものだ。
菜乃花もクリフも、未来に進んで大人になる。環境も何もかもが変わり、何もかも今のまま、は不可能だ。今までよりも近しくなるか、今よりも離れてしまうのか、今はまだわからない。正直、怖い。……それでも。
「うん。それでもいいの」
好きな人に、好きになってもらいたい。でも、そうなるかはわからない。
それまで、理不尽に負けずに生きていられる保証もない。想いは、いつでも一方通行なものだ。
この世界は美しく、しかし思った以上に残酷だ。大好きな人を与えておいて、何かの気まぐれや偶然で簡単に取り上げてしまう。望みを持たせておいて、叶えてくれることは少ない。
「それでも、出会えてよかったから。一緒にいられて、何度も何度も、言葉を伝えられた。もっと、もっと、って気持ちは、いくらでも沸いてくるけど……全部叶えたい気持ちも、もちろんあるんだけどね。クリフくんからは、もう本当にたくさん、大事な気持ちをもらったから」
それでも尚、振り返って手元に残ったものが、あまりにも愛おしいから。
たとえ望みが叶わなくても、願いが届かなくても、それでもいいと思えるくらい。菜乃花はすでに、たくさんのものをクリフから貰えた。
結果がどんなものであれ、クリフが……菜乃花の誰よりも大切な人が選んだそのままの答えが、一番いい。
「たとえ結果が私の望むものじゃなくても、その未来は変えなくていい。わたしとクリフくん、大事な人たちが生きてる未来があれば、それで十分なの」
言って、菜乃花はそっと、ベッドから身を滑らせて、床に足を下ろして立った。自分より少しだけ背の低い少女と向き合って、その手を取る。
「だからありがとう。昔、わたしの願いを叶えてくれて。わたしの未来を守ってくれて。今回は、クリフくんの未来も守ってくれた。それに、ずっと嘘をついてて……ごめんなさい」
両手で、小さな手を包み込む。少女はびっくりした顔をして、菜乃花と、菜乃花の手に包まれた自分の手を交互に見ていた。
「でももう大丈夫。だって今日がダメなら明日また頑張ればいいんだもの。わたし、頑張れるよ。明日が来るなら━━きっと、大丈夫!」
菜乃花は少女の、自分自身を抱きしめるように、その手のひらを強く握る。
そう、明日さえくれば大丈夫だ。そのために自分はこの力を得た。この力と共に生きることを決めたのだ。
自分と大切な人たちの未来を守るためにこの力を使う。それが、菜乃花の決めた在り方なのだから。
『……わかった。もういいよ。今の言葉は、嘘じゃないってわかるから。じゃあ、これで仲直りだね、『わたし』』
そう言って、少女は花が咲くように笑った。それと同時に、ぱっ、と部屋に差し込む日差しが強く、明るくなる。
……秋の夕暮れを思わせる金色の輝きは消え、代わりに真夏の眩しい光と熱気があたりに満ちた。
菜乃花がおもわず、窓の方を振り返る。全開に開けられた窓の向こうには、まるで絵に描いたような高い、高い青空と雲が広がっていた。
ああ、あの景色だと菜乃花は思う。
この病室を出た日の空だ。クリフと初めて出会った日の暑さだ。
『でもまずは、本人に返事を聞いてみない?』
「あはは……そうだよね。うぅ、緊張するなぁ」
『頑張って。いってらっしゃい』
「……うん、いってきます!」
二人の手はするりと離れる。そして、菜乃花は少女の隣をすり抜けるように駆け出すと、病室のドアに手をかけ、そのドアを、大きく開け放った。
* * *
【マスターマインド】の襲撃より、丸一日半が過ぎようとしていた。
あのあと、意識を失った菜乃花を抱え、隼人と椿、クリフの3人はすぐさま支部に引き返した。幸い、椿と隼人の怪我は本人曰く『大したことはなく』、クリフの容体も、疲労以外の問題は見当たらなかった。クリフに与えられた『毒』に至っては、まるでその存在が最初から無かったかのように、その成分の一欠片さえ、検出されず。
「……予想はしていたけど、本当に『無かったことになる』のね」
クリフの検査結果を見た椿が、関心半分、恐れ半分といったため息とともに、そう漏らしていた。
そして、菜乃花はあの日の夜から、まだ目を覚ましていない。
支部の医務室、その個室の一つ。病院と同じく白を基調にしたその部屋で、菜乃花は穏やかな寝息を立てて眠っていた。
クリフはあの日の夜からずっと、菜乃花の傍についている。
もちろん、菜乃花もクリフたちと同じく、侵食率を含む検査と診察を受けた。結果は、事件当夜こそ侵食率の値が高かったものの、特に問題はないとの診断だ。現在は、侵食率の値も正常値に戻っている。
「目を覚さないのは、体力と精神力回復のための防衛反応だろう。今までずっと自分の心臓を動かすために【現実改変】……エフェクトを使ってたんだ、それを全力で他に使ったら、どうやったって負担はかかる。負担分を取り戻すために、休息が必要なんだ」
「再検査結果も、疲労以外の問題はなし。UGNの検査結果は信頼していいわ。大丈夫、多少時間がかかっても、必ず目を覚ますはずだから。龍巳くんも、根を詰めすぎないようにね」
隼人と椿はそう言って、必要な手続きや取り急ぎのUGNへの報告、二人の家への連絡を済ませてくれた。今日は二人とも、朝から仕事復帰である。
「……菜乃花」
ぽつり、と名前を呼び、クリフは深く項垂れた。
隼人や椿の言葉を信用していないわけではない。実際、菜乃花の寝顔は穏やかで、苦しげな様子は一切感じられないし、時折寝返りだってうつものだから、本当にただ眠っているだけに思える。
それでも、この目で彼女の目が開くところを──その声で話すところを聞くまで、クリフは安心できなかった。
「頼むから、起きてくれ」
それは、呼びかけというよりは祈りに近い言葉だった。どうか、自分が大切な人を今度こそ守れたのだと、喪わずに済んだのだという、確かな安心が欲しい。
「あんなこと言っといて、起きないってのはなしだろ」
そして出来るなら、菜乃花が意識を失うその間際、クリフに言った言葉の真意を、確かめたい。
『……好きだよ、クリフくん』
『いちばん、だいすき』
「……クリフくん?」
その、記憶に焼きついた声と全く同じ声が、クリフの鼓膜を震わせた。
クリフは跳ねるように顔を上げた。真昼の明るい日差しが差し込む中、菜乃花がぼんやりと目を開けて、クリフの方を見ていた。
「菜乃花?」
「やっぱり、クリフくんだ……すごい、目が覚めて一番に会えた。おはよう」
嬉しさの滲む声で、少しはにかみながら、菜乃花はふわりと微笑む。まだ少し寝ぼけているのか、少し声の力は弱い。しかし、口調も、そのどこか緊張感の乏しい雰囲気も、まったくいつもの菜乃花だった。
「…………」
どっと、安堵感が押し寄せてくる。思わず全身から力が抜け、とっさに言葉が出てこなかった。
よかった。ほかに異常はないのか、二度と目を覚まさなかったらどうしようかと──
「……心配した。お前、丸一日以上目を覚さないから」
クリフは、安堵と共に押し寄せる感情を、なんとかそんな言葉に集約した。菜乃花はそんなクリフの心情など露知らぬ、というように緊張感のない様子で、首を傾げる。
「そうなの? もしかして……ずっと、傍にいてくれた?」
「あぁ。……体の具合はどうだ、どこか苦しいとか、痛いとか無いか。椿さんたち、呼んでくるか?」
クリフの問いかけに、菜乃花は「大丈夫」と、ゆっくりと首を横に振った。そしてじっと、クリフの目を見据える。
「あのね、クリフくん。戻ってきてくれて……わたしの一生のお願い、聞いてくれてありがとう」
心の底から嬉しそうに、菜乃花は微笑む。そんなこと、とクリフは言いかけたが、菜乃花は遮って先を続けた。あのとき、言えなかった言葉の続きを。
「二人で戻って来れて、よかった……でも凄く、怖かった。大事な人がいなくなるかもしれないって思うの、こんなに怖いんだって思って……クリフくんは、やっぱりすごいなぁ」
大事なものを喪う、自分を失う可能性と、常に戦うこと。この怖さの中を、クリフはずっと生き抜いてきたのだと菜乃花は思う。
「無茶して、心配かけて、ごめんなさい。でもわたし、クリフくんがいなくなるかもって思ったら、凄く怖かったから……夢中だったの」
怒られても、後悔はしない。謝っても、同じことが起きたらきっと、菜乃花は同じ無茶を通そうとするだろう。覚悟は決めた。
でも、不安は残る。きっと、それはこれからも無くなることはない。
クリフはほんの少しの間、黙って菜乃花の言葉を聞いていた。そして、菜乃花の手にそっと触れる。その温もりを確かめたいというかのような仕草だった。
「心配はした。これからもする。けど、怒れないだろ。俺だって、同じ状況なら無茶してでも菜乃花を助ける。……とにかく、菜乃花が無事でよかった」
喪わずに済んだ。その安堵が、改めてやって来たのだろうか。クリフの、菜乃花の手に触れるその仕草は優しすぎるほどに優しい。簡単に壊れたりするはずもないのに、まるで壊れ物を扱うかのような仕草だった。
大丈夫だよ、ちゃんとここにいるよ、と声をかけるかわりに、菜乃花はクリフの手を握り返した。クリフが少し驚いたように菜乃花を見たが、菜乃花はにこりと笑ってそのまま手を握り続ける。
「……俺が帰って来られたのは、今回もお前がいたからだ。ひとりじゃ戦えなかったし、生き残れなかったはずだ」
「でも、奈落花ちゃんがいなくなったあとは、ひとりだったでしょ? それでも頑張ってたんだよね」
菜乃花と出会ったばかりの頃のクリフは、奈落花の遺した言葉を胸に、一人で立ち続けていたはずだ。あの頃のクリフは今よりも寂しそうで、それでも、今と同じように強かった。
クリフはしかし、苦笑して首を横に張る。
「……奈落花を喪って、あいつの遺した言葉は確かにあった。それを、拠り所にもしてた。でも、それだけじゃない」
菜乃花が握った手を、クリフが控えめに握り返す感触がした。どきりと心臓が大きく脈を打った気がする。クリフは、優しい目をして菜乃花を見つめていた。
「あのとき、菜乃花に会えたからだ」
「わたし?」
「俺が一人でいようとしてたとき、ずっと傍にいてくれただろ」
クリフと出会ったばかりの頃、確かに菜乃花はずっとクリフについて回っていた。遠回しにやめろと言われても全くめげず、何かにつけてその後ろを雛のように追いかけたものだ。
最初はやりすぎてクリフに怒られたこともあったが、いつしか何も言われなくなっていった。クリフの方が、仕方がなく折れてくれたのだ、と思っていたのに。
「確かに、奈落花がいたから昔と今の俺がある。でも、菜乃花がいなかったら、今の俺は未来を見ようとしなかったかもしれない。……だから、菜乃花がいてくれて、生きててくれてよかった」
クリフが今度こそ、菜乃花の手を強く握り返す。その温もりと共に向けられた優しい目、心からの安堵がこもった声を、向けられた感情を、なんと表現するべきか菜乃花にはわからない。
「(……わたし、生きて、足掻いてよかったんだ。強がって、足掻いて、綺麗じゃなくても、全部、全部無意味なんかじゃなかった。それで、クリフくんのこと、守れたんだ)」
表現できない感情が溢れて、涙がこぼれそうになる。それを必死で堪えた。まだ泣くわけにはいかない。言わなければならないこと、聞かなければならないことが、まだある。
「あのね……わたし、クリフくんに、言わなきゃいけないことがあるの。倒れる前に、言ったことの続き、なんだけど」
涙が流れないように、声が震えないように、菜乃花はゆっくりと、一言一言を声に出す。クリフは、菜乃花が何を言うか予想がついているのだろう。少しだけ驚いたように目を見開いたが、黙って頷いて先を待ってくれた。
「わたし、クリフくんのことが大好き。これからもずっと、ずっと一緒にいたい。クリフくんとわたしが大人になっても、ずっと一緒にいられるような……それが叶うくらいの、クリフくんにとって特別な女の子になりたい」
祈るように、菜乃花はその告白を口にした。
「一生のお願い……は、この前使っちゃったから、もうダメだよね。だからこれは、ただのお願い」
緊張に胸が高鳴る。不安に心が潰れそうだった。
未来は不確定で、色のいい返事が返ってくるとは限らない。その願いがどんなに重くても、願いをかけた側が、何を懸けていようともだ。
だが、不安と同じ数だけ、希望もある。その希望を見据えて、手を伸ばす権利は誰にだってある。
「奈落花ちゃんのことは……過去は、わたしには変えられないけど……わたしを、クリフくんの未来に、ずっといさせてほしい。クリフくんのこれからを、ずっと一緒に生きていきたい」
大好きだよ、と、もう一度その言葉を重ねて、菜乃花はその言葉を終えた。言えた、という達成感と安堵で、堪えていた涙がひとすじ、流れていくのがわかる。
「そうか……」
クリフはぽつり、とそう言うと、控えめに握っていた手を、もう少しだけ強く握りなおした。大切な人の掌の感触に、菜乃花の心臓がとくんと高鳴る。思わず見上げたクリフの表情は、酷く穏やかで、喜色に満ちていた。
「菜乃花の方から、選んでくれるんだな、俺を。……なら俺も、ちゃんと言葉にしないとな」
クリフは確かめるように、菜乃花と繋がった自分の手を見つめている。期待と不安、二つの交じり合った感情を抑えきれず、じっとクリフを見つめる菜乃花。クリフもまっすぐ、そんな菜乃花を見つめ返してくれた。
その先の言葉が聞きたい。けれどほんの少し怖い。ほんの数秒、数分の出来事でしかないのに、今この時が永遠に続くかのように長く思えた。
「お前が上を向いて、世界を歩いて行けるようになるのを見守るって、前にも言った事あったよな」
「……うん、覚えてる」
クリフの言葉に、菜乃花はゆっくりと頷く。忘れるわけがない。
「けどな、本当はそれだけじゃないんだ。……もし許されるなら、これからを進んでいく菜乃花の隣にずっと居たいって、そう思ってた」
どくん、と、菜乃花の心臓がもう一つ、大きく高鳴る。
その隣にずっといたい。これからも、未来へ進むあなたの傍に、ずっといられればいいのに。
その願いは、まさしく菜乃花がクリフに向けていた気持ちと同じだった。
膨らむ期待を後押しするように、クリフのまなざしは優しく、菜乃花を見つめている。
「俺は、菜乃花のお陰で前に進めるようになった。俺の未来で、隣にいて欲しい人は、菜乃花以外には考えられない」
菜乃花は思わず、息を呑んだ。それって、と、菜乃花が口の中で、その言葉の意味を確かめるようにつぶやいた。
「俺も、菜乃花が好きだ。……誰よりも好きだ。こっちこそ、ずっと一緒にいさせて欲しい」
クリフは小さく頷きながら、一言一言大事そうに、その言葉を紡ぐ。菜乃花は今度こそ、大きく目を見開いた。その目尻から、またひとすじ、涙が溢れていく。
「……ほんとに?」
「ああ」
聞き返す必要などない。菜乃花の知っているクリフは、こんな大切なことで嘘も、思わせぶりな態度も取ったりしない。そんなことはわかっていた。
それでも聞き返したのは、これが確かに現実の出来事だと、菜乃花のほうが確かめたかったからだ。
クリフは、そんな菜乃花に優しい肯定を繰り返してくれた。
「ほんと、なんだ……ほんとに、クリフくんと、これからも、いっしょに……いていいんだ。夢、叶っちゃった……」
……高校生に、なりたい。
最初、白い部屋で願ったのはそんな小さな、ささやかな夢だった。
ちゃんと受験勉強をして、試験を通って、可愛い制服のある学校に通うこと。
仲のいいクラスメイトもいて、全然知らない街や、お店の話も聞けるようになる。部活も、アルバイトだって出来るようになる。そんな高校生になってみたい。
それから、恋がしてみたい。
その人を視界にいるだけで、世界が輝くような。声を聴くだけで、心が弾むような。寂しさを抱いているなら、全力で抱きしめてあげたくなるような。そんな素敵な人に出会って、目一杯好きになりたい。
誰かを心から愛して、そして━━心から愛されてみたい。そして、その人の隣でいつまでも笑っていたい。
そんなふうに思っていた。それが一つ残らず、目の前で叶っている。信じられない。けれどこれが現実だと確信して、嬉しさのあまり、涙が後から後から流れてくる。
……明るい真昼の日差しが、窓から差し込む。もうしばらく、誰もこの部屋に来ないといいな、と菜乃花は思っていた。
今はクリフの手を握り、しばらくこの幸福が現実だと言うことを確かめていたい。
「ありがとう、クリフくん……大好き」
もう一度大切な気持ちを繰り返すと、クリフは菜乃花の涙をそっと拭ってくれた。
「俺もだ。ありがとう、菜乃花。生きて、ちゃんと伝えてくれて」
うん、と菜乃花は頷き返すので精一杯だった。せっかく拭ってくれているのに、新しい涙が次々溢れてきてキリがない。
……いつだったか、菜乃花はクリフに約束した。生きて、生きて、生きててよかったと、そう思えるまで頑張る、と。
……わたし、生きていてよかった。今、心の底からそう思える。
死にたくないと叫んで、運命さえもねじ曲げた。この命は、その結果生き延びた「間違い」なのだと思ってきた。
その間違いを、いつか正される日が来るのだと怯えていた。未来を信じるのは恐ろしい━━そう、今でも少し、未来のことは怖いままだ。
けれど、それでも生きていてよかった。明日が来てくれてよかった。未来を自分で決められる「わたし」で、よかった。
「わたし、この気持ちも、人生も……クリフくんのことも、ずっと、失くさないように守るから。そのために、この力を使っていくって、決めたの」
たとえ恐ろしくても構わない。生きて、生きて、足掻いて生きたその先で、やっと、心からそう思える。
クリフと一緒なら、小さくもささやかで、そして、絶対に譲れない希望を抱いて、これからも生きていける。
視線を上げると、夕焼けのように赤い髪をした一番大好きな人が、優しく菜乃花を見つめてくれていた。そうか、と菜乃花の決意に心地いい相槌を返してくれる。
それだけで、胸がいっぱいになるほどに、嬉しい。
「俺も、菜乃花のことを守る。二度と、喪わない」
うん、と菜乃花も頷いて相槌を返す。その決意はずっと前から知っている。
強く、眩しく、少しだけ寂しい、けれど温かい想い。それがまっすぐに菜乃花へ向いているのが、言葉に表せないほどに幸福だった。
……この人生を、心から愛おしいと思えるほどに。