5章【The Faith】
久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」
月のない星明りばかりの夜空は、暗い。
公園に設置されている灯りは、ワーディングの影響で全て消えていた。
しかし、公園の周りにある街の明かりで、うすぼんやりと、目の前に立っているのが女性であることはわかる。彼女は長い黒髪に、上品なスーツを着こなし、穏やかに微笑んでいる。
見覚えは無い……はずだが、菜乃花は心の底から這い上がる「嫌な予感」で、動けずにいた。キュマイラで夜目が効くクリフは、菜乃花よりもずっとはっきり彼女が見えているだろう。だが、菜乃花をかばうように前に出る様子からは、明確な警戒と緊張が伝わってくる。
「そういえば直接会うのは初めてでしたね。失礼しました。わたくしにとってはお二人とも、忘れがたい方なので……つい、お久しぶり、と」
女性はそんな二人の警戒に気づいていないような様子で微笑んだ。白く細い指先で軽く口元を押さえて照れてみせるその仕草は、まさしく深窓の令嬢然としている。
「改めて名乗らせていただきます。ごきげんよう、わたくしは天船巴。──UGNの方にはたいてい、【マスターマインド】と呼んで頂きます」
女性は細めた目をゆっくりと開き、その口元を吊り上げて笑みを深めた。
彼女が名乗った瞬間、今まで「予感」に過ぎなかったものが、明確な悪意と害意となって二人を襲う。
徹底的な実力主義を謡うFHにおいて、【マスター】の名前を持つものは、それだけで実力者という証だ。その中でも【マスターマインド】と言えば、人心を弄び使い潰す、折り紙付きの魔女。
だが、そんな噂や記録などより、二人にとって彼女の存在はもっと記憶に新しい。
「本当に、忘れがたい顔だこと。龍巳クリフに久方菜乃花。特に久方さんのほうは、病院でわたくしの提案をあんなにきっぱりと断ってくださって。その高潔さには感心しました」
【マスターマインド】──巴は、くすくすと忍び笑って菜乃花を見据えた。上品さに隠された、腐臭のような悪意が滲む。彼女がほんの数ヶ月前、菜乃花の心臓が止まりかけた時のことを言っているのは、間違えようもなかった。原因となった【レネサプレスト】は巴の傘下のジャームだ。先の事件も、この女の仕業だと言っても大きな違いはないだろう。
「それで、今でもまだ、その聖女じみたお考えに変わりはありませんか?」
「どういう……意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。……そろそろ死ぬのが惜しくなって来ましたか、とお尋ねしました。死の擬似体験も、あれだけ悪夢でなさったら充分でしょう?」
死の疑似体験。その言葉に、菜乃花の目が見開かれる。覚えのある経験は、毎晩のように見るあの夢しかない。
「菜乃花の夢はお前の仕業か、【マスターマインド】」
クリフも同じ考えにたどり着いたのだろう。唸るような低い声で糾弾した。怒鳴り散らすようなトーンではないがゆえに、ことさらに怒りが滲んでいるように思える。しかし巴は露ほども気圧されることなく、優雅に微笑みを保ったままだ。
「仕業、と言っていただくほどのことでは。わたくしがしたことと言えば、ほんの少し、彼女のレネゲイドを不安定にしたくらいのこと。この程度、精神攻撃と呼ぶのも烏滸がましいことですよ? その証拠に、誰もわたくしの介入に確証を持っていないでしょう? 前回は少々派手に動きましたからね」
今回は、UGNに気付かれない程度のことしかしていないからだ、と巴は告げる。
だが、菜乃花の居場所も、所属も、【マスターマインド】の手にかかればすぐに割れるだろう。以前、菜乃花が倒れた時にも、直接病院に現れたくらいだ。直接ではなく、間接的な介入であれば、前回のように他者を操ったり、姿を変えればいくらでも出来る。
「しかし、思った以上に上手くいったのは確かです。久方さん自身の精神状態や……あなたにも、ある意味助けられたのかもしれませんね、龍巳クリフ」
「っ…………!」
菜乃花は巴の言葉に、息を吞む。そして、唇を引き結んで思わずクリフの背中を見た。菜乃花の側からは、クリフの表情は伺い知れない。
このところ、ずっと菜乃花の心が不安定だったのは確かだ。そしてその原因、真ん中にあったのは、いつもクリフへの気持ちだ。巴は、そんなことまで計算に入れていたと言うのだろうか。自分の心を見透かされ、丸裸にされていたようで、言い知れない恐怖感が這い上がってくる。
「最も大事なのは、わたくしの計画は順調だということ。ここまでくれば……そう。あとは『坂を転がる石のように』」
「……させると思うか?」
「さてどうでしょうね。だって決めるのは、あなたでは無いでしょう? ねえ、久方さん?」
鋭い眼光で巴を睨みつけ、なおも低く、威嚇するようにクリフは言った。しかし巴はまるでクリフなど眼中にないというように振る舞って、菜乃花を一瞥した。
「今なら、あのときよりマシな欲望をお持ちになったでしょう。どうですか? 今度こそ、FHにいらっしゃいませんか?」
まるで、友人を外出にでも誘うような、軽い口調。完璧な角度と仕草で成されるそれは、今の状況に不似合いすぎて、やはり不気味だ。恐怖に後押しされるように、菜乃花は首を横に振る。
「行きません。行く理由なんて、ありませんから」
「残念です。なら、やはりこうするしかありませんね」
菜乃花の答えは予想できていたのだろう。巴は菜乃花が言い切るや否や、やはりゆったりと洗練された仕草でその右手を上げて、無造作に振り抜く。
同時に空中で水の塊が出現し、それがぼこり、と嫌な音を響かせて蠢いたかと思うと、弾丸のように二人に向かって降り注ぐ。
菜乃花はクリフの背から動こうとしなかった。それに、クリフも慌てる様子はない。菜乃花をかばう位置取りのまま、片腕を突き出して水の弾丸を弾いた。
ぱぁん、と激しい水飛沫の散る音がして、辺りを濡らす。
ただの水に見えても、オーヴァード……ソラリスが放つそれがただの水であるわけがない。実際、それは透明無臭でありながら、触れるだけで皮膚を溶かす猛毒の水だ。当然、生身の腕で触れれば無事では済まない。
「菜乃花の返事は聞いただろ。今すぐ消えろ、【マスターマインド】」
が、クリフは平然と腕を振り下ろし、巴を再度睨みつける。その腕は生半可な攻撃など通さない硬質の鱗━━竜鱗に覆われている。鱗でかばえない小さな飛沫は、しゅぅ、とか細い音を立てて蒸発していた。サラマンダーの熱操作の能力である。
「まさか。二度目ですもの、これくらいでは諦められませんね。久々の最前線ですし、もう少し楽しませてくださいませ」
しかし、巴は慌てることも騒ぐこともなく、再度その細い指先を持ち上げて笑った。ぼこ、ぼこっ、とまた不快な音を立て、今度は虚空に水弾がいくつも浮かぶ。先ほどより数が明らかに増えた。そのひとつひとつが、致命的な毒、あるいは腐食性を伴っていることは予想に難くない。
「クリフくんっ」
「菜乃花はそこにいろ。援護を頼む」
菜乃花がクリフの傍に寄り、ジャケットの裾をそっと握る。クリフは振り返らないが、声は力強い。菜乃花はそれ以上何も言わず、頷いて裾から手を離した。
「勇ましいこと。でも、力不足ですよ? 間合いを詰めなければ、あなたでは埒が開かないでしょう?」
巴がクリフに対し、小馬鹿にしたように笑う。どうやら、二人の戦闘スタイルくらいは調査済みということらしい。クリフは挑発に乗った様子はなく、落ち着いた様子で、浅く呼吸を一つついただけ。
「お前に用はないのです、龍巳クリフ。消えなさい」
その態度が気に障ったのだろうか。巴が底冷えのする声色で囁いた途端、虚空に浮いていた水の塊が猛烈な勢いで破裂した。毒性を持った無数の水の弾丸が、ランダムな軌道で襲いかかってくる。
「させない! クリフくん、今だよ!」
次の瞬間、叫んだのは菜乃花だった。彼女の声が音として空気を振るわせ、水の弾丸に「干渉する」。そして呼ばれたその声に応えながら、クリフは竜鱗に覆われた腕を一閃した。
腕を振るうべき軌道が、クリフには「わかる」。その軌道は、周囲に漂うオルクス因子━━菜乃花のエフェクトがクリフに伝えた、確率的に「最善」の軌道だ。夜闇でモノクロになった戦場の中で、そこだけ鮮やかに色づいて見えるその軌跡を、クリフはただなぞるだけでいい。
間髪入れず、クリフの腕に触れた猛毒の水が蒸発しながら消えていく。武器がなくとも、サラマンダーの熱源操作能力に支障はない。
「これは……」
巴がぴくり、とわずかに、しかし確かに眉を顰めた。そしてすぐさま次弾を繰り出そうと腕を上げるが。
「そこだ」
それよりもクリフの方が速い。拳を大きく振りかぶって、すでに彼は巴の眼前に迫っていた。支援に徹するオルクスの因子は、クリフに最善の道筋とポテンシャルを約束する。菜乃花とは年単位で任務や訓練に出ているのだ、今更タイミングがズレるわけがない。
巴が選択したのは、すでに生成しかけていた水弾を防御に使用すること。クリフの拳が巴に肉薄する直前、二人の間に水弾の一つが割り込んだ。そして衝撃を受けた瞬間、瞬間的に凍りつく。
結果、氷の盾となった水が衝撃を吸収し、巴は致命傷を避けたが━━
「ぐ、っ……!」
その衝撃を吸収しきれず、大きく吹き飛ばされることたなった。公園の中央あたりから植え込みの前まで、耳障りな摩擦音と土煙をあげ、彼女は大きく後退する。
パラパラ、と砕けて右腕に張り付いた氷を、クリフが腕を一振りして払った。空に散る氷粒はそれだけで蒸発していく。
「菜乃花、まだ警戒を解くな」
クリフはうずくまった巴の姿を視界に捉え続けつつ、低い声でそう警告する。二人がかりとはいえ相手はマスターエージェント。それにしてはあっけなく一撃を入れられた。こちらは無傷だ。
……上手く行きすぎている。相手は搦手で右に出るもののいない【マスターマインド】だ、警戒してしすぎると言うことは━━
「……ふふっ、あはははは! 本当に、二人揃って可愛げのあること」
不意に、目の前で蹲っていた巴が笑い出す。クリフはさらに身構え、巴を睨みつけた。巴はゆっくりと顔を上げ、可笑しくてたまらない、とでも言いたげに口元を手で覆い、笑い続けている。その視線が見ている先は、前に出ているクリフ……ではなく、その後ろ。
さっと背筋が寒くなる。クリフの背中には、いつも守りたいもの、喪いたくないものがあるからだ。
「っ、菜乃花!」
反射的に振り返ろうと身を捻り、後ろにいるであろう少女の名前呼ぶ。
しかし、答えは返らず、代わりにクリフを襲ったのは、身を焼く激しい熱と衝撃だった。
「な━━━━!?」
誰かに突き飛ばされ、身体が傾ぐ感覚。思わず片腕を地面について、後ろをもう一度振り返った。
菜乃花の姿を探したその視線の先には、一人の少女のシルエット。その姿を認めた瞬間、クリフの瞳が驚愕と恐れで見開かれる。
忘れるわけがない。忘れられない。忘れない。
土埃と血に塗れ、舞い上がる黒髪。しかし、その明らかな戦場の中心で、クリフを突き飛ばした後、不思議と穏やかな笑みを浮かべる小柄な少女。
少女の━━落谷奈落花の口元に浮かんだ淡い微笑みが崩れ、何かを言おうとしたのだろうか。僅かに開かれる。
「(やめろ)」
声は出ない。だから代わりに心の中で叫ぶ。
久しく夢に見なくなったその光景は、だからこそ鮮やかに目に映った。そして確信できる。寸分の狂いなく、再演されていると。
何一つ変わることはない。クリフは間に合わない。彼女は助からない。過去は変えられない。現実は変わらない。変えてはいけない。
クリフの目の前で、決定した喪失は繰り返される。破壊の奔流としか呼べないものが、彼女の命を奪っていくその光景が。
何が起こっているのか把握できないまま、クリフは呆然と、その光景を見ているしか出来なかった。
気がつけば菜乃花の姿も、巴の姿も消えている。
「(落ち着け、これは現実じゃない。でもいつから……どこからおかしくなった? 菜乃花はどこに)」
明らかな異常。ここが現実のはずがない。【マスターマインド】お得意の精神攻撃……だと想像は出来るが、最も異常で恐ろしいことは、それらの異常が全く気配もさせず、ただ当たり前な顔をしてそこに在ることだ。クリフの背中を冷や汗が伝う。
音もなく、内側からは明けることのない夜が、その帳をゆっくりと下ろしていった。
* * *
異変は、ほんの一瞬だった。
「クリフくん……!?」
起点は巴の哄笑。面白がり嘲るような笑みで、彼女の瞳が菜乃花を捉え━━クリフは嫌な予感を感じ取ったのだろう。菜乃花の方を振り返ろうとした。
しかし、それは叶わず、クリフは崩れ落ちるように地面に膝をつき、倒れ伏した。
「クリフくん! どうしたの、クリフくん!」
「……っう……」
敵前であることさえ一瞬忘れ、菜乃花はクリフに駆け寄って助け起こす。うっすら開いた瞼の向こうに覗くクリフの瞳は、しかし焦点が合っていない。目の前の菜乃花ではなく、別の何かを見ているかのようだ。
クリフはしかし、懸命に抗っているように見えた。眉間に皺を寄せ、歯を食いしばって、言葉を紡ぐ。その間にも、その瞼は抗えない何かによってゆっくり降りていく。
「菜乃花、逃げ、ろ……」
「嫌! そんなこと出来ない!」
いくらクリフの指示だろうと、そんなことが出来るわけがない。菜乃花は激しく首を横に振ってそう叫ぶ。
「(どうして、【マスターマインド】の攻撃は当たってなかったのに!)」
パニックに陥りそうな自分を抑えながら、菜乃花は必死で考える。状況は終始こちらが有利だったはずだ。相手はマスタークラス。とはいえ、だからこそクリフにも菜乃花にも油断は無かった。巴が放った攻撃のことごとく、文字通り水滴の一つさえ、菜乃花にもクリフにも届いていない。それならば──
「いったいどうして、という顔ですね」
カツ、カツ、とヒールの靴音を響かせながら、巴が倒れたクリフと菜乃花の傍まで近づいてくる。その表情は、やはり作り物めいた微笑だ。
菜乃花はそれを見上げ、精一杯睨みつけた。巴は菜乃花の表情など意に介さない様子で、しゃあしゃあと目線を合わせてくる。そして、とっておきの秘密を打ち明けるときのように、囁いた。
「まず一番気になるであろう結論から。……このまま放っておけば、龍巳クリフは目を覚ますことなく、死ぬかジャーム化します」
さあっ、と。そんなはずはないのに、血の気が引く音が聞こえた気がした。
「え…………?」
今まで考えていたことが、全て頭から吹き飛んだ。手足の先が一瞬で冷えたように錯覚し、息が苦しくなる。なのに、心臓はどくどくと脈打っているのがよくわかる。
目を覚まさない。このまま死ぬ。
いつかどこかで聞いたような、言葉の羅列。でもその意味が、上手く頭に入ってこない。
そんな言葉を言われるのは、ずっと自分のほうだった。物心ついた時からそうだから、ずっとずっと、覚悟もしていた。だけど、今それを宣告されたのは菜乃花ではない。クリフだ。
「龍巳クリフはサラマンダー。熱操作が行えることはわかっていますから、この特殊な『毒』を含んだ水で攻撃を加えれば、対抗策としてそれを蒸発させ消失させようとすることは想像に難くありません。なら、熱では効果を喪失しないよう、加工を施して混ぜておけばいい。見えない、感知しにくい攻撃が最も戦場では有用です。あとは、彼だけが前に出るようにすこーし、言葉でコントロールしてあげればいいだけ」
間合いを詰められなければ何も出来ないだろう。お前に用はない。そんな言葉をぶつければ、彼は巴の狙いが前回通り菜乃花だけだと錯覚する。
だが、今回の狙いは最初からクリフだった。茫然と、笑みを浮かべてこちらを見つめる巴を見つめ返しながら、菜乃花はようやくそこまで思い至った。
「なんで、こんな……あなたはわたしのことが目的なはずでしょう」
「正確に言えば二人とも標的です。けれど、あなたとの交渉を有利に進めるには、まずあの【赤壁】の命を手中に収めるほうが効率がいい」
言われた瞬間、未知の感情が頭の中を支配する。それは熱、激しい炎のような、濁流のような感情だった。
……それでは、クリフは菜乃花のせいでこんな目に遭ったことになる。前も、今この時も。
確信した瞬間、かっと、頭に血が上るのを感じた。
「……今すぐ、クリフくんを元に戻して」
認めざるを得ない。クリフが菜乃花を大切に思って奔走してくれることは、菜乃花にとって嬉しいことだった。
だが、そのためにクリフが傷ついたり、損なわれたりするのは耐えられない。
いやだ、だめだ。そんなことは、絶対に━━
「クリフくんに何かあったら──わたし、あなたのこと、絶対に赦さない」
感情の濁流に押し流されるように、菜乃花の口から出た言葉。その強さに、菜乃花自身が驚いていた。そんな言葉を誰かにぶつけたことなど、初めてだった。
絶対に赦さない。それは何よりも強い、人との断絶の言葉だ。今まで誰相手にも言ったことはないし、言うつもりもなかった。
巴は菜乃花の言葉に一瞬目を見開いてから、また可笑しそうに声を上げて笑った。そして立ち上がり、菜乃花をはるか頭上から見下ろす。
「あなたのような方でも、『赦さない』なんて言葉が言えるんですね。思った以上に彼は、いい交渉材料になってくれたようで安心しました」
くすくす、と忍び笑いながら巴は続ける。
「つまりあなたは、自分の命より大切なんですね。彼のこと」
「っ…………!」
巴にそう指摘されて、菜乃花は思わず、クリフを抱きしめる腕に力を込めた。言葉にできないほどの羞恥と悔しさに、頬が熱くなる。
ほかの誰でもない、クリフをこんな目に合わせた人間に、自分の恋心を指摘され暴露されるのが、たまらなく悔しかった。しかも、その心を人質にするような人間に。
「なら、あなたが何をすべきかはお分かりですよね。……FHにいらっしゃい、久方菜乃花。龍巳クリフの命を救いたければ」
いったい、どの口がそんなことを。頭に血が上って何も考えられなくなりそうなのを、菜乃花は必死で抑えていた。冷静にならなければ、と、努めて自分に言い聞かせる。
「あなたが約束を守る保証なんてない! こんなことするような人の言葉を、信用なんて……!」
以前、菜乃花の命を盾に取られたときもそうだった。椿が言ったように、これは完全なマッチポンプで、タネを仕掛けたのがFHである以上、その要求に従ったからと言って望むような結果が得られる保証などない。
しかし、それがわかっていても、菜乃花は声の震えを抑えることも、動揺を隠すこともできない。
元々、相手が誰であろうと、菜乃花は誰かを疑ったり、裏をかいてくる相手をかわしたりするのが苦手だ。
その点、【マスターマインド】にとってはむしろこの場が実際の戦場よりも主戦場だ。わざとらしく、巴は困った顔をして頰に手を当ててため息をつき、さらに菜乃花を揺さぶってくる。
「信用はしていただかなくても、わたくしは特に困りませんね……どちらにせよ、あなたがあなたの『命よりも大切な人』と、永遠にお別れをする羽目になるだけですから。わたくしとしては、龍巳クリフが死のうと生きようと、どうだっていい。でも、あなたがFHに来て尽力してくださるなら、その希少な『能力』に免じて助けて差し上げる、というだけです」
たとえこの交渉が決裂しようと、巴には何の痛手もない。
まさしく、【レネサプレスト】のときと同じだ。たとえクリフが、菜乃花が死んだとしても、UGNが一人いなくなるだけ。FHである巴にはメリットしかない。
「わたしの『能力』って……」
「あら。【シルクスパイダー】が傍にいながらまさか聞いていらっしゃらない? もちろん【現実改変】のことですよ」
その言葉を聞いて、思わず菜乃花の身体が強張った。それを予想していたかのように、巴はにこりと微笑む。
【現実改変】。聞き覚えがないはずもない。つい先ほど、椿と隼人、二人から話を聞いたばかりだ。
ごく一部のオーヴァードに発現し、オルクスと相性が良く、絶大な力を発揮するエフェクト。菜乃花にはその力がある。天船巴はそう言い切った。
『読んで字の通り。『現実を思うままに改変出来る』エフェクトよ』
『街一つ、余裕で飲み込んで改変しちまった例もあるくらいだ』
先ほど聞いた、二人の言葉が脳裏をよぎる。
「実はね、この『毒』も【現実改変】由来のものなんです。元は簡単に言えば『使用した相手の見たい世界を、見たいように見せる薬』とでも言いましょうか。もしもこの薬が完成していれば……ふふ、もう一度、世界は変わっていたかも知れませんね」
ぺらぺらと、巴は聞いてもいない毒──元々は薬らしいが──の説明を続けている。しかし、菜乃花の耳には少しも内容が入ってこない。
「でも、残念ながら完成前に責任者が亡くなってしまいまして。未完成品だったのですが、わたくしがちょっと手を加えて、立派な毒にして差し上げたというわけです。こんなふうに、【現実改変】能力を持った方がいらっしゃると、何かと都合がいいんですよ。だから、あなたが来てくださるなら、そこのエージェント一人の命くらいは見逃してもいい」
のろのろと視線を上げ、菜乃花はその、見かけだけは清廉な微笑を正面から見た。
「本当に、わたしにあるんですか、【現実改変】の力なんて……」
「あら、本当に身に覚えはありませんか? 『こうなればいい』と思ったことが現実になったりしたことは?」
言われて、色々な光景が脳裏によぎり、息をのむ。
正月の電車遅延に信号トラブル。お昼時なのに空いていた飲食店。
例えばつい先ほどは、菜乃花がクリフへの恋心を自覚して、「会いたい」と強く願ったから──クリフが走ってきてくれたのではないか?
全て状況証拠に過ぎない。決定打ではないが、言われてみれば「上手く行きすぎている」ことはある。
椿に指摘されたとおり、最近の菜乃花のレネゲイドは不安定だ。暴走状態になる可能性はある、とも言われた。
その不安定さが、小さな【改変】として表れている可能性も、捨てきれない。
「とはいえ、わたくしもこの間のことで確信が持てたのですよ。久方菜乃花さん。あなたは先天性の病気で、余命は幾ばくもなかった。それをレネゲイドによって治癒され、今生きている」
でもね、と、巴はわざとらしく不思議そうに声色を変えてそう続ける。
「冷静に考えれば、それはおかしいんですよ。もちろん、重い傷病から立ち直ったオーヴァードはあなた以外にもいます。例えばエグザイル。彼らはそもそも体を自由に変化させられます。心臓がなくとも死にませんし、別の臓器で代用も出来ます。疾患の原因が残っていたとしても、捨ててから取り替えてしまえばいいだけのこと」
でもあなたには当てはまりませんね、と言いながら、巴は指を一本立てる。
「次にキュマイラ。彼らは単に『身体が強くなり、丈夫になる』シンドロームです。見た目の変化の有無に関わらず、筋力、自然治癒力など、その本質が強靭になりますから、そもそも感染時に本当の意味で『治癒』しているはずです」
でもこれもあなたは持っていません、と、巴は指をもう一本立てた。
「あなたはどちらも当てはまらない。では、どうやってあなたのレネゲイドは、あなたの心臓の疾患を治癒したのでしょう? いいえ、治癒したというなら、力を弱められたからと言って、どうしてあなたの疾患が再び表に出て、あなたの命を奪わんとしたのでしょう?」
巴は再び、その笑みを深める。菜乃花に、その「奇跡」の正体を突きつける。
「答えを教えて差しあげます。あなたの病気は、『今も治癒していない』んですよ、久方菜乃花さん」
そもそも、奇跡などではないのだ、と。
レネゲイドの力を得ても尚、その理不尽は、今も菜乃花の胸の中で生きている。そう巴は言いきった。
「あなたの寿命はとうに尽きている。それを、あなたは自分の能力──限られたオルクス能力者だけが使える【現実改変】によって捻じ曲げ、今この瞬間も運命を変え続けているんです。『自分の心臓は止まっていない』『寿命はまだ尽きていない』と。そうでなければ、あなたが今生きていることの辻褄が合わない」
だから、レネゲイドの力を弱められたら、現実を改変できなくなり、死に瀕するのだ、と巴は付け加える。菜乃花は巴の言葉を聞きながら、一言も発せずに茫然とするしかなかった。
けれど同時に、すとん、と腑に落ちたこともある。
「(そっか、わたし……本当はずっと、気づいてたんだ。だから自分はずるいって、思ってた)」
無意識に、自分の胸元に手を当てた。そこには、今もうるさいほどに脈を打つ自分の心臓がある。
自分は、幸運による奇跡に恵まれ、その結果を享受していたのではない。
今、この瞬間も、私利私欲で「死ぬべき運命」を捻じ曲げながら生きている。
それが、久方菜乃花という人間なのだ。
「でも、それの何がいけないのです? そんなもの、人間として最低限の『欲望』ではありませんか。オーヴァードとして力を持つあなたが、自分の能力で自分の命や、望むものを得ようとするなんて当然のこと」
耳鳴りがする。呼吸音も、心臓の鼓動もうるさいほどに。それなのに、巴の声は嫌にはっきりと聞こえた。その異能を肯定し、菜乃花の心を揺さぶる。
お前を苦しめるだけの正しさなんて捨ててしまえ、そんなもの、胸に抱いた欲望にしてみれば些末なことだ。
どうせ今まで散々間違えて来たんじゃないか、と。
「久方さん。そろそろ自分の願いに正直になってみては? 長く現実という理不尽に蹂躙されたあなたならわかるでしょう。世界の用意した秩序、『正しさ』なんてただ美しいだけで、大した価値なんてないんですよ。あなたには力があるのだから、思い通りに運命を捻じ曲げて自分の幸福を追求すればいい。それには、UGNは窮屈なはずです」
そして、巴は頬に当てていた手をゆっくりと、菜乃花の眼前に差し出す。その手を見つめてから、菜乃花は巴の顔を見上げた。
「彼の命も。あなたにとってはかけがえのない『幸福』のひとつのはずでしょう? さあ──」
ぴく、と菜乃花の手が震える。ついさっき、自覚したばかりの想いが、喉元までせりあがる。
本当は生きてたい。まだ死にたくない。これまでも、これからも、クリフが欠けた人生など考えたくない。
この手を取れば、FHに行くことになる。けれど、クリフは助かるかもしれない。
「(でも、それはいけないこと)」
UGNとして、FHに加担するなどもってのほかだ。以前死にかけたときだって、それがわかっていたから、自分の命を諦めることになってでもその手を払いのけた。
今までの積み上げてきたもの。菜乃花が得られるはずもなかった、それでも奇跡で得られた幸福に、傷をつけず、報いるため。
クリフや椿、他のみんなを裏切るような選択を、してはいけない。
それが「正しい」自分だ。そんなことはわかりきっていて、迷う余地なんてない。
前の時は迷わなかった。なのに、今は拒絶の言葉は出てこない。
菜乃花はふ、と、視線を下にずらす。クリフは目を閉じているものの、時折呻き声をあげて苦しげに息をついている。悪夢を見ているのか、それとも別の要因なのか、それすらわからない。それでも暖かい。呼吸している。まだ生きている。
自分が正しいほうを選んだら、クリフはいなくなるかもしれない。
……だったら、そんな正しさにいったい何の意味があるのか。
はっ、と。
その考えに至った直後、菜乃花は反射的に息を吐いた。すぐに、また反射で息を吸う。なのに一向に楽にはならない。ただただ、息苦しい。
無風で真っ暗な世界。虫の音すらも聞こえない、世界そのものが死んでしまったかのような、静寂。その中で、自分の荒い呼吸と、心臓の音と、耳鳴りが響き続けている。
いけない、と、自分のわずかに残った理性的な部分が、警鐘を鳴らす。
直感的にわかる、このままではまずい、レネゲイドの制御が効かなくなる。自分の心の底で蓋をされ、大人しくしていたはずのものが這い出して来る。心と理性を揺さぶり、菜乃花を支配しようとする。
「(ダメ、抑えなくちゃ)」
望んではいけない。だってそれは正しくないから。その願いは間違っている。
わたしは正しい道を選ばなくては。
でないと、現実がめちゃくちゃになってしまう。
わたしは欲をかいてはいけない。
でないと、際限なく色んなことが壊れてしまう。
それは直感としか言いようのない、しかしおそらく正しい予感だ。
そう思うのに、だんだん思考が鈍り、何も考えられなくなる。
言ってはダメ。望んではダメ。懸命に、何度も繰り返す菜乃花の心の声を、少女の声が甘く笑って、あの夢と同じように否定した。
『うそつき』
「…………ぁ…………わたし……」
意味のない言葉が口から溢れる。覚醒時の記憶はずっと曖昧だった。けれど、今になってピントがぴたりと合うように思い出す。
覚醒時の激痛と精神的なショックの中で、確かに『彼女』は菜乃花にそう問いかけた。何が欲しいのか、と。そして菜乃花は答えたのだ。「死にたくない」と。
『だってあのとき、あなたは『わたし』に死にたくないって言ったもの』
『いやだ、このまま死にたくない、生きて幸せになりたい、そのためならなんだってするって』
『──化け物になったって、構わないって』
「さあ、いらっしゃい、久方菜乃花」
巴が動かない菜乃花に焦れたように、ゆっくりとその手を伸ばしてくる。菜乃花は茫然と、その手を眺めて──
……直後、ぱしん、とその手が払われた。
菜乃花が払ったのではない。初めて第三者が発したその音に、菜乃花はひととき、正気を取り戻す。
視線の先には、菜乃花と同じように苦しげに喘ぎながら、戦意を喪失していないクリフがいた。
「……菜乃花に、触るな……!」
クリフは必死で、毒の効果に抗っているようだった。時折焦点が合わなくなるのだろうか。眉間に皺をよせ、相変わらず苦しげに息をつきながらも、巴を鋭く睨みつけた。
「何も知らない外野が、勝手なことばかり、言いやがって……お前に……菜乃花以外に、菜乃花の本当の望みなんて、わかるわけがないだろうが……!」
巴は、クリフの視線を真っ向から見つめ返し、目を細める。その瞳は今までの貼りついたような笑みは一切なく、鋭利な刃物のように冷たかった。
「……しぶとい男。ジャーム化の間際から『帰って』来ただけのことはある、というわけですか」
「ああ、そうだよ。誰がこんなことで、死ぬか……! 決めたんだ、もう、誰にも……喪わせない……誰も、喪わない……!」
クリフは言いながら起き上がろうとして、腕に力が入らないのだろう。がくり、と頽れかけたその体を、菜乃花が支える。
クリフくん、と菜乃花は言葉をこぼすように名前を呼ぶ。
無理をしてほしくない。傷ついてほしくない。だからもういいと、菜乃花は言いかけて、言葉が続かなかった。
クリフは絶対に諦めない、と言いたげに、毒に蝕まれる意識を保とうと必死になっている。
──「『決めた』んだ。怖くても、大事なやつをもう喪わないように、大事なやつにも喪わせないように諦めないって、そう決めた。そういう自分になる。そう在るために、この力を使う」
そう言った、あのときから。今も、クリフの瞳の光も意志も、ずっと失われていない。その精神の強靭さに、菜乃花は言葉を失って目を見開く。
「(自分で、決める……生き方を、在り方を)」
クリフの言葉を心の中で繰り返しながら、菜乃花はぎゅっと、手を握りしめた。
「……だから……くそっ、こんな、ことで……!」
しかし、体は思うように動かず、やがてその体から力が抜けて、瞼が降りてしまう。
「クリフくん、クリフくん!」
菜乃花が名前を呼んで体を揺らしても、今度はその瞼は開かなかった。
「二人から離れろ、【マスターマインド】!」
そのとき、夜の静寂を鋭いひと声が切り裂く。
近隣の高い建物から跳躍したのだろう、その人影は大きく弧を描いて夜空を裂くと、そのまま手にしていた獲物━━日本刀を【マスターマインド】に向かって投げた。
当然、巴は難なく数歩後ずさり、これを回避する。しかし、日本刀は菜乃花とクリフ、そして巴の間の地面に割り入るように突き立った。巴はその刀を、感情の灯らない瞳で見据えている。
「……まさか、あなたがこの国へ戻っているとは。【ファルコンブレード】──高崎隼人」
日本刀を投げ、両者の間に割って入った青年が、跳躍力のわりに音もなく、地面に降り立つ。声色だけは、巴は興味深そうに隼人の名前を呼んだ。しかし隼人は吐き捨てるような仕草をしながら巴を睨み返す。
「【マスターマインド】、椿の後輩にそれ以上近づくな」
さら、と砂が流れる音がして、もう一本、新たな日本刀が隼人の手に握られた。じり、と隼人が間合いを詰めたぶん、巴がまた後ずさる。
「久方さん、龍巳くん! 大丈夫!?」
続いて、黒髪を靡かせて椿が駆け込んでくる。頼りにしている先輩の姿と声に、菜乃花は思わず安堵感に息を吐きそうになった。
……気を抜きそうになった途端に、ずきり、と頭痛がして、息が苦しくなる。相変わらず菜乃花の中でレネゲイドは暴れているようで、心の隙間を逃すまいとしているかのようだ。
「久方さん、顔色が……龍巳くんは、どうしたの」
「わ、わたしは、大丈夫です。でもクリフくんが……! 【マスターマインド】は、特殊な『毒』だって……このままだと、クリフくんが危ないって」
「【マスターマインド】が? 特殊な『毒』……まさか」
椿の表情に、明らかに焦りと驚愕の色が滲む。巴が底意地の悪い笑みでそれを肯定した。
「貴女のお察しの通りものもですよ」
「この間といい、今回といい……汚い手ばかり使うわね、【マスターマインド】。これ以上、あなたにその力を利用させない」
それだけで、椿は『毒』の正体に思い当たったように見えた。椿は険しい顔で巴を睨んでそう吐き捨ててから、菜乃花の肩を掴んでひとつ、深呼吸をしてから口を開く。
「いい、久方さん。元々この薬は【現実改変】の力を使ったものよ。それを毒にした、ということは、龍巳くんは今酷い悪夢を見せられている可能性がある。このままだと目を覚さないだけじゃなく、暴走してジャーム化する危険もあるわ」
巴に言われたことを、椿にも言われて体がこわばった。でまかせや菜乃花を騙すための嘘ではない、現実として、菜乃花は今再びクリフを喪おうとしているのだ。
「この薬に解毒薬はない。なら、もう一度【現実改変】を行って、この効果を打ち消すしかない。あなたにはその力がある。龍巳くんを、あなたなら助けられる」
その言葉に、菜乃花は思わず目を見開いて椿を見て、クリフを見下ろした。
助けられる。わたしが、クリフくんを。それはこの状況で初めて見えた、光に等しい言葉だった。
「……それならわたし、やります」
菜乃花がそう言い、椿が頷いたのを見て、巴がぴくりと眉を動かす。それを、隼人か素早く牽制していた。
「続けろ、椿。こっちは気にするな」
「でも、【現実改変】の力を今使うことは、あなたにとって、とても危険なことよ。ずっとあなたのレネゲイドは不安定だし、今もそう。願った通りの結果になる保証はないわ。龍巳くんが助かっても、あなたがジャーム化するかもしれない。最悪、二人で死ぬかもしれない。……教官としてのわたしは、あなたにその能力(ちから)を使わせるわけにはいかないわ」
そんな、と、菜乃花の口から言葉が溢れかけた。それを椿は菜乃花の顔を見据えて、安心させるように少しだけ微笑み、首を横に振る。
「でも。……私たち大人は、今から敵を撃退するのに精一杯になる。だから後ろであなたが何を選んで、何をしても感知出来ない」
その表情は優しいながら、決意と覚悟に満ちている。だからその言葉の意味を、菜乃花は即座に察することが出来た。
二人は、菜乃花がクリフを救うために無茶をしても、見逃すと言ってくれているのだ。
「片手間で何とかできる相手でもないしな? 戦闘(こっち)が終わってからなら、フォローはしてやる」
続けて隼人が、努めて明るい口調でそう言い添える。手にした日本刀を構え、巴に向かってすらりと振りかざした。
「いいか久方。オーヴァードなんて皆、どこか運命を捻じ曲げて生きてるんだ。俺も、椿も。たぶん龍巳もな。例外はない。FHもUGNも、どこかで自分の欲と向き合ってる。違うとしたらその信念──在り方、生き方が違うってことだけだ」
オーヴァード。人から化け物になり、それでも生きて何かを成すと決めた者たち。強大な力を持ちながら、その力をどのように使うか、どのような願いを抱いて叶えるかを考え続けている。例外はない。クリフもそうだった。クリフにそれを教えたのは、幼馴染の奈落花だったのだろう。
運命を変えるほどの力を、どのように使うか。そうして、どんな自分でありつづけるか。
「(それを決めるのは──わたし。わたしで、いいんだ)」
「……好きな奴を守りたい、喪いたくないって気持ちは、間違ってない。その力が間違ってたとしても、信念は正しいはずだ。そうだろ?」
隼人の言葉に、菜乃花は迷いなく頷くことができた。力強いその仕草に、「よし」と隼人は満足げな笑みを浮かべる。そして椿に目配せすると、椿も頷いて、菜乃花の肩から手を離す。
「大丈夫よ。あなたは自分の未来を自分で選んでいいの。正しいことがあるとしたら、そのことだけ。選んだ責任も含めて、久方さんなら受け止められるわ」
そして立ち上がって、彼女は堂々と、隼人の隣に立った。
その姿は、まるで一枚の絵のようにぴったりとはまっている。頼もしい、菜乃花の先輩たちだ。
「それじゃ、龍巳を頼んだ。大丈夫だ、お前も龍巳も強い。運命も所詮結果だ、きっと後からついて来るさ」
頑張れ、と最後に残して、隼人はぐっと地面を蹴り、巴の方へ一気に距離を詰めた。続いて椿も後を追う。さすがに歴戦のエージェント二人を相手にするには荷が重いのだろう。巴は一瞬迷うかのように菜乃花たちを一瞥したが、忌々しげに隼人と椿を見据えて対峙した。
後に残された菜乃花は、ぐったりとしているクリフをもう一度抱きかかえなおして、ひとつ、深呼吸をする。
今、菜乃花がするべきことは、明白だった。
「(わたしにとっての、「ただしいこと」を)」
限られた運命を受け入れて、精一杯生きること。自分の命の領分を超えずにいること。
それは確かに、別世界の菜乃花が決めた「正しい在り方」だった。悲しくても美しく、短くも鮮烈な。菜乃花自身が見ても、憧れずにはいられないほどの在り方だ。
──でもそれは、今の菜乃花が自分で決めた生き方ではなかった。
菜乃花は菜乃花だ。たとえ別の世界の「自分自身」だったとしても、菜乃花の人生において、選択肢を選べるのも、決められるのも「菜乃花」だけだ。
この『力』を持った、この世界の菜乃花自身が、自分で自分の在り方を決めるしかない。
「大事な人を、守りたい。そのために、この力を使う」
クリフを喪いたくない。
そう言葉に出すと、その言葉は気持ちになって、すとんと心の中に降りてくる。まるで最初からそこにあったものが、今まで見えていなかっただけのように思えた。
クリフは、菜乃花に「生きていてくれてよかった」と言ってくれた。菜乃花は間違っていない、と。
生きたい、という菜乃花自身も忘れていた願いを、クリフはずっと守ってくれた。正しいだけではない、迷ってばかりの、間違いだらけの菜乃花でもだ。
「菜乃花を菜乃花の人生ごと愛している」と、届くはずのない言葉まで、信じて、届けてくれた。
そんなひとを、愛しく思わずにいられるはずがない。
だから、菜乃花もクリフを守りたい。正しさとは関係なく、菜乃花自身の信念として。
この決断は、最初から最後まで菜乃花のエゴだ。美しく綴じられた本のような理想ではない。自らの死を前に、毅然と立ち向かった「あの子」には遠く及ばない、ずるい悪足掻き。
もしかすると、巴が言ったように、菜乃花は自分勝手に自分の幸福を追い求めているだけなのかもしれない。
クリフはきっと、無茶をした菜乃花のことを、後でとても怒るだろう。今から願うことは、ただ、菜乃花が菜乃花のために、クリフに乞うことなのだから。
そう思った時、菜乃花の口元には、それでも自然と笑みが浮かんだ。
「……それでもわたし、クリフくんと、生きていたいんだ」
だからお願い、と菜乃花の願いが彼を呼ぶ。
あなたが目を覚ましたら、好きなだけ怒られて、叱られたっていい。それであなたが生きていて、わたしも生きているってきっと実感できる。
そのために命をかけると、そのためにこの力を使うと、今、菜乃花は自分で決めた。
菜乃花は誰に教えられたわけでもなく、緩やかに両手を祈りの形に組んで、目を閉じる。
「もう一度帰ってきて。一生のお願いだから」
夜のとばりが、また音もなく、今度は上がり始める気配がした。