4章【最善の絵空事】
久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」
支部を出て、しばらく二人、無言でゆっくりと歩き続けた。ほう、と吐いた息は白い。見上げた夜空は、星明りばかりだった。
乾燥した空気に助けられて、涙はすっかり乾いていた。まだ肌寒さを強く感じる冬なのに、クリフがやんわりと繋いでくれたままの手は、酷く熱く感じられる。話したいこと、話すべきこと、そんな言葉にはまだならない感情が、あとからあとから浮かんできて、結局口を開くことが出来ないでいた。
それでも、何から話せばいいのだろう、と考えながら、菜乃花はクリフの手と繋がった自分の手を見下ろす。やはり、まずは心配をかけてしまったことを謝るべきだろうか。
「あの、クリフくん。ごめんね、心配かけて……さっきのは本当に、たいしたことじゃないから……」
……でも、心配してくれて、あんなに慌てて来てくれて、嬉しかった。そんな不謹慎な本音が喉元まで出てきそうになり、なんとか飲み込む。
まだ混乱を残す頭で考えた言葉は、たどたどしい。言うべきことが、菜乃花一人の手では余って、バラバラと溢れていくようだ。
クリフは菜乃花の言葉を聞くと足を止め、振り返る。
「ちょっとそこで待ってろ、すぐ戻るから」
そして、帰り道にある公園を指した。
「? う、うん、わかった」
菜乃花はクリフの指先……昼間は親子連れや子供達で賑わう小さな公園を見て、頷く。さすがにこの時間は人気(ひとけ)がない。街灯がぽつんと、ベンチを照らしていた。
ベンチに座って、しばらく大人しくしていると、ほんの数分でクリフが戻ってくる。
「ほら。カフェオレでいいか?」
菜乃花に向かって差し出された手には、自動販売機で買ってきたらしい温かい飲み物。前と同じ気遣いに、菜乃花は無意識に表情を綻ばせる。
「……うん。ありがとう。前も、こんなことあったね」
「そうだな。もういい加減、お前に『何かある』ときはわかるようになった気がする」
去年の冬。まさしく同じように悪夢を見ていた頃のことを思い出していた。
クリフも覚えていたのだろう。頷きながら残ったほう……缶コーヒーを開けてそう言った。菜乃花もカフェオレの缶を開けながら首を傾げ、「そんなにわたし、わかりやすいかな?」と言ってみたが、クリフは答えず、意味深に笑うだけだった。
「お前、人に心配されるといつも『たいしたことない』って言うだろ。菜乃花がそうやって顔に出してる時点で、『たいしたことある』んだ」
一口コーヒーを飲んでから、クリフは菜乃花に言う。
「今回も俺でよかったら聞いてやる。だから、ゆっくりでいい。話したいことから話せ」
誠実な瞳に真正面から見つめられて、菜乃花の心臓がそれだけで高鳴る。
ああ、本当に前と同じだ、と菜乃花は思わず、その嬉しさと安堵感に微笑んだ。
「うん。……ありがとう」
誠実に、まっすぐに、本当にいつも、彼はわたしを助けてくれる。だからわたしも、そんな彼に応えなくてはいけない。
菜乃花はそれから、椿と隼人にもした夢の話と、時折見える幻覚の話を、クリフにも打ち明けた。クリフは何も口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
「クリフくんは、去年の今頃……同じように夢を見た時、わたしが話したこと覚えてる?」
全て話し終えてから、菜乃花は改めて、クリフにそう尋ねた。
「ああ。自分は死ぬ運命で、本当はそれが正しかったんじゃないか、って話だろ」
「そう。あれ……たぶん、やっぱりただの夢じゃなくて、本当のことなんじゃないかと思うの」
椿が言うように、レネゲイドが世界や次元を超えることはあり得るのだ。「気のせい」で済ませるよりはよほど信憑性がある。
「……それで?」
クリフは菜乃花の言葉に一瞬、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わずに先を促した。一旦、菜乃花の話を聞くことにしたらしい。
「だったら……やっぱり、死んじゃった『わたし』は、わたしのこと、怒ってるんだな、って」
━━嘘つき。
夢でも、現実で見た幻でも、菜乃花と同じ年くらいの少女は、菜乃花をそう言って責めていた。あれが『別の世界の菜乃花』、つまりは『病気が治らずに死んでしまった菜乃花』なのだとしたら、そういうことになるだろう。
「菜乃花はそう思うのか?」
クリフは低めの声でそう相槌を打ち、菜乃花は小さく頷いて肯定した。悪夢を見ることは苦しいけれど、菜乃花には、『彼女』のその気持ちは至極、当たり前のことに思えたからだ。
「……だって、あの子も本当は『生きていたい』と思ってただろうから」
それは、人間として、生物として当たり前の欲望。避けられない死が運命として定められていたとしても、出来ることなら大事な人と、大好きな人とずっと一緒に生きていたかったはずだ。
「それでも、あの子は最後まであんなふうに笑って、受け入れたんだ。哀しいけど、それが当たり前で、どうしようもなくて……人間としては、正しいことだったから」
あの子だって、「死にたくない」と心の中で叫んだこともあったはずだ。ただ、彼女はオーヴァードではなく、ヒトだったから、その願いは叶わなかった。
だからせめて、大事な人が笑顔でいられるようにと、精一杯の努力をし、感謝と、愛情だけを残して逝った。それが人間の限界で、ヒトとしての領分を守った「正しい」生き方だ。
人の運命は……現実は、変えてはいけない。そもそも普通の人間なら、「変える」という選択は最初からないのだ。出来ることはただ、与えられた運命を精一杯、生き抜くこと。
だから、別世界の久方菜乃花が選んだ運命は、「最善」なのだ。
与えられた運命の、引かれたその『線』の中で、精一杯生きること。それこそが、久方菜乃花という人間の「正しいこと」だ。
「やっぱりわたしは、死ぬ運命で……それは決まっていたことで、だから、それが多少遠い未来になったって、死ぬのは怖くない。『そのとき』が来たら、わたしもあの子みたいに全部受け入れられる。ううん、受け入れなくちゃいけない」
菜乃花は、笑顔を浮かべたまま、夜空の星を見上げて手を伸ばす。
「そう思ってたけど……でも、やっぱり違ったみたい」
そう言うと、菜乃花は夜空に向かって伸ばした手を下ろし、笑みを悲しげに崩してクリフの方を見た。
死ぬのは怖くない。だって、それが久方菜乃花として、正しい運命だから。
それは星のように遠くまたたく、理想的な絵空言だった。
━━死にたくない。
だから、夢の中で菜乃花はそう叫んで目が覚める。
「わたしはきっと、運命を変えてでも、生きていたいって……死にたくないって、願ったんだと思う」
菜乃花は言葉を詰まらせながら、ゆっくりと目を伏せる。その間際、クリフが少し驚いたように目を見開いた気がした。
レネゲイドは、無作為に人に能力を与えるのではない。適合者の欲望(ねがい)に応える形で、能力を覚醒させるのだ。であるならば、同じ「久方菜乃花」でありながら、菜乃花は願ってしまったことになる。
『死にたくない』『この運命を変えたい』と。
あの夢の通りに、死の寄り添う病床で、囁いたレネゲイドの手を取ったのだ。そうして、菜乃花の運命は変わった。
だからあれは全てが夢なのではなく、一部は過去の記憶なのだろう。レネゲイドに感染し、覚醒し、オーヴァードになったその瞬間の、菜乃花自身の記憶が混じっている。
この力が隼人の言う「現実改変」と呼ばれるものに相当するかは、わからない。けれど、少なくとも近いことはしたのだろう。菜乃花のレネゲイドによって、現実は飴細工のように捻じ曲がり、改変されて、菜乃花の手のひらの上には、望み通りの人生が出来上がった。
それがどんなに恐ろしく、おぞましいことか、なんとなく今の菜乃花には理解できる。
「こんなの、『嘘つき』って言われても、しょうがないよね。やっぱりずるいと思うもん、わたし。死ぬはずだったのにずるして生き延びて、それなのにこんな嘘ばっかり」
ゆっくりとまた目をあけてから、自嘲の色を込めて、菜乃花は笑った。再び正面から見たクリフは、先ほどよりも少し険しい顔をして、菜乃花を見つめ返している。
わたしはきっと、悪いことをしたのだろう。みんなが、与えられた運命に文句も言わず、言えずに生きているところに、横紙破りで自分の欲を通したのだ。でも、そうしなければ、きっとクリフには会えなかった。
……ああ、やっぱりわたしはずるい。あんなに責められてもまだ、この人といられるならそれでも生きていたいと願ってしまう。
「菜乃花」
クリフがやっと口を開いて、菜乃花のことを呼んだ。
「無理して笑わなくていい。……そんな顔される方が、よっぽど心配だ」
「……っ……」
クリフは菜乃花を責めることも、諭すこともなく、最初にそう言った。だから菜乃花は、不意を打たれたようになって表情を崩す。
「あと、謝るな」
そして、思わず「ごめん」と言いかけたのを、先にクリフに止められた。
「菜乃花が謝ることなんてない。生きていたい、死にたくないなんて当たり前だろ。それに、その夢が本当のことだったとしても、俺の考えは変わらない」
クリフは真剣な表情のまま、菜乃花から目を逸らさず、迷いのない言葉で言い切る。
「お前はずるいわけでも、例外なわけでもない。何度でも言う。別の世界の菜乃花がいたとしても、お前を責めるなんて、絶対にあり得ない。あいつは、お前に生きてくれって言ったんだ。お前の人生ごと愛してるって、確かにそう言った」
クリフの言葉は、確信に満ちた口調だった。菜乃花自身の言葉よりも力強く、芯の通った言葉だ。いつか聞いた、祈りにも似たような言葉ではない。本当に、もう一人の菜乃花に聞いてきたかのような。
「俺は菜乃花を信じてる。だから、それでも誰かがお前を責めてるなら、それは別の世界の菜乃花じゃない。別の誰かだ」
だから、菜乃花は呆然と、クリフの言葉を聴いているしかできなかった。
どうしてだろう。どうして、こんなことが起きるんだろう。これも、菜乃花が都合のいい現実を作り上げているのだろうか。
菜乃花のことを責めもせず、諭すこともなく。お前は悪くない、謝らなくてもいい、なんて、一番言って欲しい人が、言ってくれるなんて。こんなのは出来すぎている。
「でも、わ、わたし……だって、たぶん、悪いこと、したんだよ。わかるの、なんとなく……ほんとに、悪いことをしたんだって。だから、これ以上はもうダメって、わかるの」
それは本能にも似た直感だった。すでに一度現実を改変したわたしは、もうこれ以上、間違いを犯してはいけない。上手く言葉にできなくても、一度禁忌を侵したことだけはよくわかる。
だから、もっとああなりたいだとか、もっとこうなりたいだとか。死んじゃったわたしが得られなかったような幸福を得てみたいとか。そんなことを考えてはいけない。その『線』、その領分から、出てはいけない。
「で、でもね、わたしの心臓がもう一回止まりかけたとき、クリフくんが『生きたいって、死にたくないって言え』って、そう言ってくれて……わたし、本当はほっとしたの」
それはあのときのクリフが、あるべき菜乃花ではなく、菜乃花の本心を言い当てたからだ。
「ああ」
クリフがほんの少し口元を緩めて、微笑む。菜乃花の罪を優しく許すように。
本当は生きてたい。死にたくない。
もう十分だなんて、嘘。
これ以上の幸福は必要ないなんて、嘘。
死ぬ運命を受け入れる覚悟があるだなんて、全部、全部嘘だ。
「わ、わたし、死にたくない……怖い」
何度ダメだと思っても、蓋をしようと抑えつけても、堪えようとしても。ほろり、ほろりと熱いものが溢れてくる。そしてまた、頬を涙が落ちていくのがわかった。
「まだ、生きていたい。まだ言いたいことも、やりたいこともぜんぜん足りなくて、いっぱいあるって、わかっちゃった。お父さんにも、お母さんにも、友達にも……クリフくんにも」
大切な人たちに、してあげたいこと、言いたいこと、一緒にしたいことが、たくさんある。
「でも、みんなを、この人生を裏切るのは嫌だって気持ちも、本当なの。……だって、それがいけないことだってわかってたから。わたしはもう、『わたし』を充分裏切った後だから。だって、死にたくなくて、生きていたくて運命を曲げることが正しいなら、それが出来ずに死んだ『わたし』はどうなるの?」
夢の中の、死を間近にしても凛として、「わたしはこのままでいい」と言った菜乃花の姿は、正しく、哀しく、触れるのが恐ろしくなるほど精緻で繊細で、硝子細工のように美しかった。あの姿が間違っているなんて、そんなことがあるわけがない。
「なら、やっぱりわたしが間違ってるんだ、だからいつか、『そのとき』が来たら──」
間違いはいつか、きっと、正されるだろう。たぶん、避けられない死、という形で。
「……大丈夫だ」
コトン、と。そのとき、クリフが手にした飲みものを置いた音がした。菜乃花が顔を上げると、クリフが菜乃花に向かって、その手を伸ばして来ていた。そのまま菜乃花の手を取ると、温めるようにそっと握りしめてくれる。
「菜乃花が『死にたくない』って……『生きたい』って、そう思ってくれるなら、俺が守る。俺はもう誰も喪わない。喪わせもしない」
小刻みに震える菜乃花の手を、労わるように。菜乃花の頬をつたう涙を、どこか安心した顔で、クリフは見つめていた。
「俺はずっと傍で菜乃花を見てるし、お前が挫けたら、何度でも立てって言ってやる。前にそう、約束しただろ?」
だから大丈夫だ、ともう一度、クリフは言った。
「俺は、菜乃花に生きていて欲しい。俺にとっては、大事な奴が生きてること以上に正しいことなんてないんだ。……お前が死にたくないって言えるようになって、よかった」
クリフの言葉の温かさが沁みて、涙が後から後から、こぼれ落ちていく。早く涙を止めて安心させたいのに、優しい言葉を聞けば聞くほど、感情が解けて涙になっていく。
前もそうだった。クリフの前では、菜乃花はすぐに感情を隠せずに、泣いてしまう。ほかの誰でもない、クリフだからそうなってしまう。
「……どうして、クリフくんは、そんなに強くいられるの? わたしより、ずっと、辛い思いしてきたのに。奈落花ちゃんのこととか、ずっと……大事な人がいなくなるの、怖くて、辛かったはずなのに……それに比べたら、わたし、すごく、情けなくて、ずるいのに……なんで、こんなに優しくしてくれるの?」
ぽた、ぽた、と、不連続に音を立て、涙が落ちていく。握った手は熱く、しっかりと繋がれていて、お互いに離れようとはしない。
クリフは少し菜乃花から視線を外し、そして、困ったように笑うと、片方の手を伸ばして、菜乃花の涙を拭った。
「俺だって、怖くないわけじゃない。大事なやつを喪うのも、自分が死ぬのも、もう嫌だ」
クリフの瞳は深く、優しく、まっすぐに菜乃花見ている。寂しさを奥に抱えながら、それでも、今このときは菜乃花の姿を映している。
「だから、『決めた』んだ。怖くても、大事なやつをもう喪わないように、大事なやつにも喪わせないように諦めないって、そう決めた。……そういうふうな自分になる。そう在るために、この力を使う」
その言葉に、また、新しい涙が溢れる。
これは、何の涙なんだろう。
……クリフくんの大事な人に、わたしは入ってる?
それは、わたしの思う「大事な人」と同じ意味なのかな。だから、守るだなんて言ってくれるの?
「クリフくん……わたし……」
震える声で、名前を呼ぶ。
……もしそうなら、わたしもだよ、と言ってしまいたい。
わたしもクリフくんのことが大事で、失くしたくないんだよ、と。
クリフくんと一緒にいられなくなることを思ったら、怖くてたまらなくて、色んな事に気づいた。
あなたのことが、こんなに好きになってたんだって気づいたんだよ。
……わたし、クリフくんのことが、やっぱり好きなんだ。
そう、改めて確信する。
強く、優しく、恐ろしいことにも正面から立ち向かうこの人を、尊敬する。
菜乃花のことを、菜乃花よりも信じてくれる彼が、誰よりも大切だと思う。
これまでも、これからも、クリフが欠けた人生など考えたくない。
いつまでも一緒にいたい。傍にいてほしい、と願ってしまう。
もし。本当に、菜乃花に未来が許される日が来るなら━━
……ジジッ、と。
そのとき唐突に、頭上の街灯が、呻き声のような雑音を吐き出し、消える。
冷えた空気が、さらにもう一段冷えたかのような、錯覚。怖気にも似た違和感が、一瞬で辺りを支配する。
ハッと息を飲んで、菜乃花は空を見上げた。
ワーディングだ。オーヴァードのみが使える力の一つ、非オーヴァードを排除するもの。
するりと、二人が繋いでいた手が解け、クリフが菜乃花をかばうように、ベンチの前に立つ。そして、公園の入り口から歩いてくる人影を睨みつけていた。
「こんばんは、お二人とも。お久しぶりですね」
にこ、と。星明かりだけの暗い夜空を従えた人物は、長い黒髪を靡かせ、品よく小首を傾げて微笑んでみせた。