久方菜乃花関連

3章【欲望】

久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」

 ……その夢は、相変わらず酷く美しい。
 どれだけ年月を重ねても、頭に焼き付いて離れない。果たしてそれが本当にあったことなのか、それとも繰り返す病の苦しさから見た幻覚なのか、それも、もうわからない。
 真っ白な壁や床。揺れるカーテン。窓から零れる金色の光。夕暮れの一瞬を切り取った、宝石のような奇跡の時間。泣きたくなるほどに眩しく、清廉な空気。
 この世で最も「美しい」光景。
 病室の中心に、ぽつん、と置かれたベッドに、菜乃花は横になっている。
 全く痛みも苦しみもなく、不思議と穏やかだ。入院中は、薬や治療の副作用で酷く痛んだり苦しんだりした思い出も多いのに。
 『ねえ、何が欲しいの? 何があれば、ずっとここにいてくれる?』
 菜乃花に、同い年くらいの少女が弾んだ声でそう問いかける。
 「彼女」の声色は優しい。ひたすらに温かく、柔らかく、際限なく甘やかすように。あなたが望むなら、なんだって叶えてあげるよ、とでも言っているように思えた。
 そうだなあ、と、菜乃花は少し考えて、自然と口元をほころばせる。
 「……高校生に、なりたい」
 ちゃんと受験勉強をして、試験を通って、可愛い制服のある学校に通う。仲のいいクラスメイトもいて、全然知らない街や、お店の話も聞けるようになる。部活も、アルバイトだって出来るようになる。そんな高校生になってみたい。
 それから。
 「それで、高校生になるなら、素敵な人に出会って……恋、とかもしてみたいなあ」
 その人を視界にいるだけで、世界が輝くような。声を聴くだけで、心が弾むような。寂しさを抱いているなら、全力で抱きしめてあげたくなるような。そんな素敵な人に出会って、目一杯好きになりたい。
 菜乃花の言葉に、「彼女」はにっこりと笑って頷いた。
 
 唐突に場面は変わり、窓の外の陽は沈みかけていた。穏やかな風は止み、規則的で無機質な機械音が、断続的に聞こえている。
 「……わたし、生まれてきてよかったって、心から言えます」
 ベッドに横たわり、ゆっくりと息を吸って、吐く。一つ一つの動作を確かめるように。
 「お父さんとお母さんの子供で、この身体で、『このわたし』で……誰にも代われない、誰にも追いつけないわたしで……あなたに恋を出来たわたしで──よかった」
 菜乃花はそう言って微笑む。言葉通り、本当に幸せそうに、心からの笑みを浮かべる。
 命の残り時間が少ないこと、想いのすべてが伝えきれないことも承知の上で。それでも最期まで正しく、美しい微笑みを。
 この、至上の世界に相応しい終わり。
 
 ──暗転、ノイズ。

 はっ、と。反射的に息を吐いた。すぐに、また反射で息を吸う。なのに一向に楽にはならない。
 ただただ、息苦しい。激しい胸の痛みに意識が遠のきそうになるのに、すぐさま次の痛みが来て、気も失えない。
 窓の外は無風で真っ暗だった。真夜中なのか、誰の声も、虫の音すらも聞こえない。誰もが寝静まっている。あるいは、世界そのものが死んでしまったかのような、静寂。
 その中で、自分の荒い呼吸だけが響いている。
 誰か、と思わず呼びかけたその声も、掠れて誰にも届かない。

 「……何が欲しいの? 何があれば、ずっとここにいてくれる?」
 
 その静寂の中、「彼女」は菜乃花に尋ねた。
 朦朧とする意識と痛みの中、菜乃花は必死で、「彼女」のほうに顔を向ける。そして、口を開いた。
 いけない、と、自分のわずかに残った理性的な部分が、警鐘を鳴らす。
 「(ダメ、言っちゃダメ)」
 それを言ってはいけないし、望んではいけない。だってそれは正しくないから。その欲望(ねがい)は、あの美しく清廉な覚悟を汚すものだ。間違っている。だから言ってはダメ。
 そう思うのに、激しい痛みと苦しみに喘ぎ、だんだん思考が鈍り、何も考えられなくなる。
 言ってはダメ。望んではダメ。これでいい。今のままでいいはずだ。
 懸命に、何度も繰り返す菜乃花の心の声を、少女の声が甘く嘲笑(わら)って否定する。
 
 『うそつき』
 
 うそつき。全部うそ。本当はあなた(じぶん)が一番わかってるくせに。
 だって嫌だ。嫌だ、嫌だ、このまま──なんて。
 
 本当は高校生になりたい。素敵な人に出会って、恋もしてみたい。
 誰かを心から愛して、そして、心から愛されてみたい。そして、その人の隣でいつまでも笑っていたい。
 だから、こんなところで、たったひとりで。
 
 「──たくない」

 * * *
 
 「…………っ!」

 か細い悲鳴を上げながら、菜乃花は跳び起きた。そのまま目を見開き、真っ暗な部屋の中で、荒い呼吸を繰り返す。
 まだ冬だというのに、背中には冷たい汗の感触。暖房の切れた室内ではすぐに冷え切って、思わず身震いした。
 「(夢……また……)」
 心の中でそう呟いて、今までの光景が夢で、今が現実だ、という実感を得るのに、数分かかった。
 菜乃花は顔を覆って、大きくため息をつく。そのまま深呼吸をするべく、ゆっくりと大きく息を吸って、吐いてを繰り返した。
 最近は、毎晩のようにこの夢を見る。
 以前も、似たようなことはあった。しかし、こんなに連続するのは初めてだ。
 ただの夢だと理解しても尚、心臓がうるさいぐらいに鳴っている。最後に夢の中で聞いた声が、遠ざかっていく雷鳴のようにまだ、耳元で轟いている。
 
 うそつき。うそつき、うそつき。
 
 「嘘……」
 顔を覆ったまま、菜乃花は口の中でぽつりと呟く。そして自分の身体を抱きしめて、縮こまった。
 あの少女は……相変わらず、菜乃花の『嘘』を責めている。
 酷く、恐ろしかった。責められていることが、ではない。菜乃花が嘘をついているということを、見通されていることが。
 深呼吸をゆっくりと繰り返す。落ち着こう、と自分に言い聞かせて布団を被りなおした。それでもなかなか冷えた体は温まらず、眠気はやってこない。不安ばかりが押し寄せる。
 少し前、こんな夢を見たときはどうやって解決したんだっけ、とふと考えた。
 「(そう、クリフくんに……)」
 彼に話を聞いてもらったのだった。クリフはこんなふうに寒い日の夜、菜乃花に温かい飲み物を手渡してくれて、温かい言葉を降らせ続けてくれた。
 あのときは、涙が出るほど嬉しかった。幸福だった。そんなに前のことではないはずなのに、随分と遠い出来事に思う。
 「……っ……」
 思わず、彼の名前を呟きそうになった。自分以外誰もいない部屋で。誰もが寝静まる真夜中に。
 絶対に、声は届かないとわかっていても。

* * *

 菜乃花はしょんぼりと眉尻を下げながら、用意された椅子に座って俯いていた。
 場所はUGNの支部、椿の部屋だ。彼女らしい、実務的な雰囲気の部屋だった。すっきりとした執務机に、大きめの窓。それ以外の私物は必要最低限だけ。小さな本棚には資料らしい本が詰め込まれ、入りきらなかったらしい本が、少し机に積まれている。
 「ごめんなさい……椿さん」
 椅子に座ったまま、菜乃花が消え入りそうな声でそう言う。菜乃花と向かい合って座る椿が小さくため息をつき、「どうしたものか」と眉根を寄せて小首をかしげた。
 「エフェクトを使用する時も、相手が使用する時も。充分に気を付けないとダメよ。訓練とはいえ、条件は実戦とさほど変わらないんだし。怪我で済まない場合もあるわ」
 「はい……すみませんでした……」
 椿が言い添えると、菜乃花はますます縮こまった。
 
 なぜ菜乃花が椿にお説教をされるはめになったのか。理由は今日の訓練の時間まで遡る。
 内容は、エフェクトを使った戦闘訓練。戦闘と言っても、菜乃花はクリフのように相手に直接ダメージを与えるエフェクトは使えない。代わりに使えるのは、味方の力を増幅する支援系のエフェクト。そして、相手の攻撃の威力を削ぐエフェクトだ。
 「戦闘訓練」という内容だと、必然的に後者のエフェクトを使うことになる。その訓練の最中で、椿にしこたま怒られるようなミスを犯したのである。
 今朝見た夢……正確には、ここの所毎夜見る夢のせいで寝不足だったとか。
 眠れていないからか、それとも別の理由か、断続的な頭痛もあって、集中できていなかったとか。
 とにかく、言い訳は色々あったけれども。
 
 「危ない!」
 
 椿の声にハッとなったときには、もう、訓練相手の使ったエフェクトが眼前に迫っていた。威力を削ぐ訓練のため、全力で放たれたとは言えない威力。それでも、無防備に受ければ大怪我になる。
 まずい。そう思っても、身体が固まって動けなかった。思わずぎゅっと目をつむって、これからやってくる痛みに耐えようとする。
 「っ…………」
 一瞬後に、決して小さくない衝撃と音。しかし、いつまで待っても肝心の痛みはやって来ず、恐る恐る目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは、背の高い男の人の影。そして、すらりと伸びた刀身の煌めき。
 ──クリフくん、と。一瞬見間違えて呼びそうになる。だって、いつも菜乃花を守ってくれたのは、彼だったから。
 「大丈夫か!」
 しかし、そう言って振り返ったのはクリフではない。声も全然違う。
 「隼人さん……ありがとうございます」
 「無事みたいだな。ひとまずよかった」
 はい、と菜乃花が答えてか細く頷くと、隼人は手に持った剣を一振りし、砂に戻す。
 隼人さん、モルフェウスだったんだ。そんなことを考えながら、ひとまず去った危機に胸を撫でおろした。
 「久方さん、怪我は?」
 離れたところから小走りの靴音が聞こえて、椿が心配そうな顔で菜乃花を覗き込む。菜乃花はふるふると首横に振って、大丈夫だと身振りで伝えた。
 「してないです、隼人さんが助けてくれたので」
 「そう。怪我がないのはよかった」
 椿は隼人の方をちらっと見ながら、小さく「ありがとう」と呟いた。隼人は苦笑して、「気にするな」とでもいうように肩をすくめて見せる。
 「それじゃあ、久方さん。訓練中にぼうっとしていたことについては、あとでゆっくりお話ししましょうか?」
 ……そして菜乃花の方へ向き直った椿の笑顔は、それはそれは恐ろしいものだった。
 菜乃花が身をすくめてか細く「はい……」と答えると、椿は菜乃花に今日の訓練の見学を言い渡し、菜乃花はあえなく、放課後に呼び出しを食らったのだった。
 
 ……そうして今に至る、というわけである。
 「ま、怪我がなくてよかった」
 入口の傍の壁にもたれかかって、隼人はあくびをかみ殺していた。椿が隼人をじろりと睨む。
 「それは結果論。それに……今日もだけど、ここの所ぼうっとしていることが多いわね。何かあった? 久方さん」
 「それは……」
 菜乃花は椿の質問に、思わず口を開きかける。
 ……何かあったか、と言われれば、ある。でも、どこまで、どのようにそれを椿と隼人に話したものだろう。
 夢のこと。昼間に時折見る幻のような人影のこと。それに、未来に対する本当に漠然とした、正体不明の不安。
 「寝不足ってところか? 久方の眼の下、ものすごいクマが」
 「えっ」
 「……は、冗談だけどな。その反応だと当たらずとも遠からずか。なんにせよ、心当たりがあるなら話しておいた方がいいんじゃないか。せっかく教官がいるんだし」
 菜乃花が思わず目の下に触れて顔を上げると、悪戯っぽく笑う隼人と目が合った。からかうような視線を受けて、少し頬が熱くなる。
 「眠れていないの? 久方さん」
 「……はい。大したことはないと思うんですけど……最近、夢見があまりよくなくて」
 言いながら、菜乃花は今朝も見た夢を追憶した。このところ毎夜見る夢は、細かな部分が違ってもだいたい同じだ。
 ……真っ白で綺麗な夢の始まり。そして、最後には菜乃花を「嘘つき」と責め立てる少女の声で、目が覚める。
 「悪夢を見るということ?」
 「はい……でも、起きてるときも、たまに、変なものが見える時があって」
 「それは……例えば、どういったもの?」
 菜乃花の言葉に何か思うところがあるのだろうか。椿が声のトーンを落とす。
 「同い年くらいの女の子が、見える気がします。顔とかは……いつもはっきりとは見えないんですけど。気配だけのときもあります」
 菜乃花は答えてしまってから、「見えない」というよりは、「見ない」ようにしているのかもしれない、と思った。
 夢の中で、「彼女」はずっと菜乃花を責めていた。どう考えても菜乃花に対して好意的な雰囲気ではない。そんな彼女が誰なのか、知るのは怖いような気がした。
 椿は菜乃花の答えを受けて、口元に手を当てながらしばし考えこむ。
 「椿さん?」
 「……いえ、ごめんなさい。確か、久方さんの衝動も『妄想』だったな、と思っていたの」
 オーヴァードはレネゲイドウィルスの発症と共に、そのほとんどがエフェクトという能力を発現させる。エフェクトはいわゆる超能力……宿主にとって有利な状況を作り出すものだが、それと鏡合わせのように生まれるのが「衝動」だ。
 エフェクトによる恩恵が実像であるなら、衝動は実像がある限り鏡に写り込む鏡像のようなもの。オーヴァードのレネゲイドコントロールが甘くなったとき、宿主の理性を飲み込む感情だ。
 それをいくつかのグループに分け、名前を付けたもの。
 それらは「破壊」、「飢餓」、「吸血」など、いくつかの種類に分類されている。そのうちの一つが「妄想」だ。
 「久方さんも、座学で多少は知っていると思うけど。妄想の衝動は、本来あり得ないものが見えたり、聴こえたりする、というものよ」
 「いわゆる幻覚とか、幻聴ってことだな」
 椿の言葉を、隼人がぽつりと補足する。椿はちらりと隼人の方をみてから小さく頷いた。
 「幻覚や幻聴は、本人の考えていること、心配事なんかが、ひとりでに見えたり聞こえたりすること。でもこれは、オーヴァードでない一般人でも起こりえることよ」
 精神疾患による幻聴や幻覚はもちろん、一般にいう、空耳なども含まれるだろうか。人間の脳は良くも悪くも曖昧で、思ったよりも簡単に騙されてしまう。
 「けどまあ、一般人の見る幻覚やら幻聴ってのは、概ね「自分の頭で考え得ること」が見えるもんだ。でも『妄想』の衝動を持つオーヴァードは、『それ以上にあり得ない』ものを感じとることがある」
 隼人がまたしても補足した。あり得ないもの……と、菜乃花は口の中だけで、その言葉を反芻する。
 「まだまだ研究が進んでいないから、あくまで憶測だけど。レネゲイドは宿主本人や存在する世界、時空をも超えて、あらゆるオーヴァードの記憶や経験を走査しているんじゃないか、と考える人もいるわ」
 死んだはずの人間の記憶を持つレネゲイドビーイング。かつての持ち主の遺志を宿したEXレネゲイド。
 本来、凝固も保管も出来ないはずの、他者の「記憶」や「記録」を保持し続けるレネゲイドは確かに存在する。
 レネゲイド同士は密接に繋がっており、それらがヒトを通して得た経験は、逐一共有されているかもしれない。
 そして「妄想」の衝動を持つオーヴァードは、その連綿と続く記憶、あるいは記録を垣間見ているのではないか──そんなふうに考える学者もいるのだという。
 「(本来、見たことがないはずのもの……世界や、時空を超えた先のもの……)」
 真っ白な壁や床。揺れるカーテン。ベッドに横たわる人影。そしてそれを見下ろしている『誰か』。揺れるカーテン越しに、菜乃花はいつも、ベッドに横たわる『自分』を見ていた。
 「それって……たとえば、別の世界の自分の記憶や経験が見えたりとかも……あり得ますか?」
 「可能性の話だけど、あり得るとは思うわ」
 では、あの夢はやはり別の世界の──「死んでしまう菜乃花」だったのではないか。あの光景は、夢でも幻でもない。ほんの少し何かが違って、死すべき運命を歩みきった自分だったのではないか。
 ずっと、何か確信めいた予感のようなものはあった。誰に言われるまでもなく、「そう」なのではないかと。
 心臓の病気が治らないまま。奇跡に愛されないまま。限りある命を、限りある分だけ精一杯生きた菜乃花。たぶん、「正しい運命」を生きた菜乃花の姿。
 ──だとしたら、菜乃花を責めているあの少女は、おそらく。
 「……久方。何か、心あたりがあるのか?」
 隼人に尋ねられて、はっ、と菜乃花は顔を上げる。どうやら考え事にふけってしまっていたらしい。
 「そんな、大したことじゃ」
 「お前なあ。今のは明らかにそういう顔じゃないだろ。能力の方向性にもよるけど、オルクスは妄想の衝動と妙に相性がいいこともあるし、気をつけたほうがいい」
 口調は軽いが、反して隼人の眼は真剣だった。まっすぐに菜乃花を見つめる瞳は、本当に心配されているのだろう。
 「【現実改変】が出来た例もあるらしいし」
 「現実改変……って、何ですか?」
 菜乃花は聞きなれない言葉に、助けを求めるように椿を見やった。椿は小さくため息をついて、瞬きを一回。
 「読んで字の通り。『現実を思うままに改変出来る』エフェクトよ。便利に聞こえるかもしれないけど、その実、とても不安定で危険性の高いエフェクトだと言われてる」
 同時に、とても希少性の高いエフェクトでもあり、その力を持っているオーヴァード自体がかなり少ないそうだ。きちんと制御出来る者は、ほとんどいない。
 「現実改変は制御が難しい。暴走したら、本人はもちろん、周りも巻き込まれることになる。……街一つ、余裕で飲み込んで改変しちまった例もあるくらいだ」
 椿も隼人も、妙に暗い目をして俯いていた。何か、思い当たる節があるのだろうか。この二人はずっと一緒に戦ってきたのだと聞いたし、その頃のことかもしれない。
 菜乃花の視線に気づいたのか、椿が顔を上げ、場の空気を切り替えるように苦笑した。
 「話が脱線したわね、ごめんなさい。久方さんの夢の話だけど……確か、以前にも同じようなことがあったでしょう。あのときも、少しRCの制御が不安定だったわよね」
 菜乃花は「はい」と小さく頷いて肯定する。
 「基本的なことだけど、不安定なときは身近な人に相談するのがいいわ。今回は、龍巳くんには相談した?」
 どき、と心臓が跳ねた。この間と同じだ。クリフの名前が出ただけで、こんなに反応を返してしまう。
 「いえ、まだ……なんとなく、クリフくんと話しづらくて」
 「話しづらいって……喧嘩でもしたのか?」
 「そんな、喧嘩なんて全然。クリフくんいつも優しいし、わたしが迷惑かけちゃうことはありますけど」
 両手をぱたぱたと振りながら、慌てて否定する菜乃花。椿と隼人は顔を見合わせて不思議そうにしていた。
 なら、どうして話しづらいのか。言外にそう尋ねられている。
 菜乃花はしばし言葉を切って、考え込む。
 ……体の具合が悪いこと、それに伴う不安を相談するのは、昔から苦手だ。きっとクリフに心配をかける。それは前の時も今も同じだ。
 けれど、それ以上に、近頃クリフのそばにいると、なんだか落ち着かない。
 「最近、なんだかわたし、おかしくて……クリフくんの傍にいたいのに、胸が苦しいし……クリフくんがバレンタインのとき、すごく人気だったのも、今までだったらきっと嬉しかったのに、今は……なんだか素直に喜べなくて」
 ずっと他人と距離を保ってきたクリフが、あんなふうに誰かと交流することを受け入れるようになったことは、菜乃花にとっても嬉しいことのはずだ。
 それなのに、なんだか置いていかれてしまうようで、寂しい。
 「前の事件の時なんて、すごく危ない目にも遭ったのに、『自分が決めたことだ』なんて言ってくれて……ほ、ほんとは、わたしのせいでクリフくんが辛い思いするのとか、絶対嬉しくないはずなのに、わたし、それも嬉しいって思っちゃうし」
 そう、嬉しいのだ。クリフが菜乃花のために手を貸してくれることも、気にかけてくれることも、嫌な顔もせず、傍にいさせてくれることも。
 それなのに菜乃花の方は、クリフに会えば妙にソワソワして落ち着かないし、話していても、何かおかしなことを言っていないか、妙に緊張してしまう。
 「クリフくんはわたしにいっぱい嬉しいことをくれるのに、わたしは全然で。この上、また心配かけるようなこと言ったら、またクリフくんの負担になるし……とにかく、なんだか勇気が出ないって言うか」
 今のままクリフに話したら、不安に駆られて、甘えて、変なわがままを言ってしまいそうな気がした。
 いつまで一緒にいられるんだろうねとか。
 クリフくんが他の女の子と仲良くしてると、なんだかものすごく寂しいんだとか。
 奈落花ちゃんの話、話してもらえて嬉しかったのに──菜乃花のいない過去のクリフを思うと、どうしようもなく、寂しくなってしまったのだ、とか。
 たとえば悪夢を見て目を覚ました夜に、クリフくんがここにいてくれたら、きっと何の不安もなくなるのに、とか。
 「わたし……何考えてるんだろ。やっぱり変ですよね、あはは」
 思い描くだけで、とてもじゃないけれど言えない。顔から火が出そうだ。
 菜乃花が俯きながらその話を終えると、部屋には何とも言えない沈黙が落ちた。
 そして、椿と隼人は視線だけを合わせて、隼人が頭をかきながら先に口を開く。
 「……あー……椿、俺はちょっとこういうのは専門外なんだが」
 「え、わ、私も専門外だけど!?」
 「いやいや、こう言う話題、まだお前のが適正あるだろ」
 「何を根拠に!? あなたも同じチルドレン出身でしょう!」
 「少なくとも俺よりかは久方とか龍巳と親しいだろ。頼むぞ椿教官」
 隼人は椿の肩をぽんぽんと叩くと、自分はさっさとその後ろに陣取ってしまった。
 椿はしばらく恨めしげに隼人を見ていたが、やがて埒が開かないと判断したらしく、菜乃花に向き直り、ひとつ咳払いをした。
 「そ、そうね……こういうときは、きっとシンプルに考えるべきだと思うの。その、久方さんから見て、龍巳くんって、どんな人?」
 「え……ど、どんなって」
 「深く考えなくていいのよ。ほら、龍巳くんは久方さんにとって初めて出会ったオーヴァードでしょうし。それも含めての印象というか」
 菜乃花は少し視線を下げて、考える。
 ……クリフは、菜乃花がオーヴァードに覚醒し、UGNに入って以来の仲だ。菜乃花にとってクリフは初めて出会ったオーヴァードであり、初めて病気のことを抜きにして、仲良くなった男の子でもある。
 菜乃花はUGNに入って以来、まるで雛鳥のようにクリフの後について回っていた。クリフの方も、元々義理堅い性格だったこともあってか、菜乃花の面倒をよく見てくれたと思う。
 そして、この冬──クリフは命がけで菜乃花を救い、菜乃花もまた、クリフを助けたい一心で行動した。椿から、ジャーム化しているかもしれないと言われたあと、彼が戻ってきてくれた温もり、「ただいま」という言葉を、今も強い安堵感と共にありありと思い出せる。
 初めて出会ったとき、こんな関係性になるなどと、どうやって予想できただろう。けれど同時に、クリフと出会わない未来など、今の菜乃花には想像も出来ない。
 「……大事な、人です」
 そして長い沈黙のあと、菜乃花の口から出たのはその言葉だった。
 大事な人。きっと、今の菜乃花に不可欠な人。それ以上、なんていえばいいのか、今は思いつかなかった。
 いったい、クリフのことを「大事だ」と話す自分は、どんな顔をしているだろう。思わず、頬が熱くなる。
 「だから、クリフくんにはいつも幸せでいてほしいって、思います。あと……これからも、一緒にいられたら嬉しいなって」
 「それは別に難しくないだろ。俺は記録を見ただけだが、龍巳にしたって、お前が来るまではろくにパートナーって呼べる相手もいなかったんだ。それを変えたのは久方だろ」
 隼人はまっすぐに菜乃花を見据え、言い切った。
 「久方は十分、龍巳の『特別』って言っていいと思うぞ」
 そうだろうか。菜乃花は自問する。合わせるように、とくん、と心臓が鳴る。
 「そう、かな……」
 消え入りそうな声で、その可能性について考える。自分がクリフの特別な人である、という可能性。
 もしそんなものが欠片でもあるのなら、今の菜乃花は信じたくなってしまう。もしも、本当に菜乃花がクリフの特別だったら──きっと、今までの「当たり前」だってこれからも続くだろう。
 けれど、クリフと短くない時間を過ごし、彼を支えて、良い方へ変えていった存在なら、菜乃花よりもよほど、「そうだった」少女がいる。
 落谷奈落花。クリフの「特別」の席は、とっくの昔にもう埋まっている。そして、今後二度と空くことはない。
 あの日、赤い夕日を二人で見ながら、奈落花と交わした約束について語るクリフの姿を思い出す。
 あの横顔に敵う気なんて、まったくしないのに。
 「(それでも、ほんとうは)」
 ぎゅっと、気が付けば、菜乃花は胸元で手を握りしめていた。
 ……本当は、高校生になりたかった。その夢は、まるで降ってわいたような幸運によって成された。
 そして菜乃花はクリフに出会い、ずっと一緒にいたい、と今願っている。クリフも菜乃花と同じ気持ちであればいいのに。そして、クリフの隣でいつまでも笑っていられればいいのに、と。
 「(わたし、いつの間にこんなに欲張りになったんだろう)」
 茫然とした。願いは尽きることなく、いくらダメだと言い聞かせても湧いてきた。
 
 本当は高校生になりたい。素敵な人に出会って、恋もしてみたい。
 誰かを心から愛して、そして、心から愛されてみたい。そして、その人の隣でいつまでも笑っていたい。
 それはいつだって憧れていた、菜乃花の願いだった。
 その願いの先を、菜乃花は今、誰に向けているのか。

 「わたし……」

 ──じゃあ、わたし、つまり、クリフくんのこと。

 そう思い至って顔を上げたとき、椿と隼人が目に見えて、「ぎょっ」としたのがわかった。菜乃花は不思議そうに首を傾げる。
 「ひ、久方さん!?」
 急に慌てて駆け寄って来た椿に、菜乃花はやはり、内心疑問符を浮かべた。しかし、そのすぐ後、すうっと、頬に何かが流れていく感覚を覚えてはっとなる。
 温かい涙は、ぽつり、と菜乃花の膝に黒い染みを作って落ちた。
 「やっぱり怪我してたのか!? 痛むのか!?」
 「えっ!? 違います、ごめんなさい、なんだか急に出てきてっ……!」
 隼人にまで心配され始めたので、菜乃花は慌てて首を横に振った。
 大丈夫だと説明したいが、自分でもどうして涙が出たのか、ちゃんとした理由が言葉にできない。どうしよう、と半ばパニックのようになる。

 ……だから、部屋に向かって近づいてくる、もう一人分の足音には誰も気付かなかった。

 「菜乃花! 大丈夫か、訓練中に事故に遭ったって──」

 足音の主は駆け足で、ドアの前で止まるとほぼ同時にドアを大きく開け放った。さすがにその音で来訪者に気づいて、三人は反射的にドアの方を顧みる。
 赤い髪と、精悍な顔立ち。そして急いできてくれたのだろう。やや荒い息をついた青年だった。
 「クリフくん……」
 まさか会うことになるなんて思っていなかった。菜乃花はどうにか彼の名前を呼ぶが、頭は真っ白だ。涙で光が反射しているせいか、クリフの姿はいやに眩しく映る。はずみで、また目尻から涙が一粒滑って落ちていく。
 「…………」
 クリフの方も、菜乃花の方を見てなんだか茫然としているように思えた。
 「た、龍巳くん!? なんでここに!?」
 「違うんだこれは、別に俺たちが泣かせたわけじゃないぞ!?」
 「いや、俺はまだ何も……」
 椿と隼人はクリフの顔を見るなり立ち上がり、慌ててそんな弁解を始めてしまった。……確かに、今初めて部屋に入って来たクリフからしてみれば、年上二人に囲まれて泣いている菜乃花、というのはおかしな誤解を生む光景かもしれない。
 ……どうしよう、クリフくん、困ってる。心配してきてくれたのに。
 菜乃花はまだ止まらない涙に戸惑いながらも、頬を拭って立ち上がり、クリフの方へ近づいた。そして、その服の裾を少しだけ引っ張って首を横に振る。
 「ごめんなさい、クリフくん……椿さんも、隼人さんも心配してくれただけなんだよ。わたしが、よくわからないうちに泣いちゃっただけで……」
 クリフは菜乃花の手元をちらりと見てから、頭を掻いた。
 「……事故があったって話は本当か?」
 「うん。わたしが訓練中にぼーっとしてて、怪我しそうになった」
 「で、実際のところ怪我は? したのか?」
 「ない……隼人さんが助けてくれたから」
 クリフは確認し終えると、「そうか」と言って安堵したようにため息をつく。そして、その大きな手で菜乃花の頭をぽん、と軽く叩いた。
 「無事ならいい。この様子だと、訓練中のことは椿さんにも怒られた後だろうし……俺に謝ることなんてない」
 温かい掌には覚えがあった。去年の冬、「お前は悪くない」と言って不器用に頭を撫でてくれた手と、同じ手の温もりだ。
 ぐっ、と。菜乃花は思わず息を止めた。目元が熱くなって、また新しい涙が零れそうだったからだ。
 「とりあえず、落ち着け。なんで泣いてるかわからないけど、言いたいことがあるなら吐き出せ。あのときもそうだっただろ」
 クリフの優しい言葉に、菜乃花はなんとか頷く。だが、顔を上げたら涙がまた出てきそうで、どうしても出来なかった。
 言いたいこと、相談したいこと、思っていることはいくらでもあるのに、どうやって言葉にすればいいのかわからない。
 何を言えば、あるいは何から言えばいいだろう。夢のこと、これからの不安こと、奈落花に対する気持ちへの後ろめたさに、そして……
 「(わたしが……クリフくんのこと、好きなんだって)」
 不思議な気持ちだった。不安だらけの中に、確かに温かく輝くものがあり、ほんのりと心の中を照らしている。ただ、そのぬくもりに手を伸ばしていいのか、菜乃花にはわからない。
 「龍巳くん、悪いんだけど、このまま久方さんを送っていってあげてくれる?」
 そのとき、椿がそっと声をかけて、菜乃花の手を取り、そのままクリフの方へと差し出した。表情には、「仕方ないわね」とでもいうような苦笑が浮かんでいる。
 「はい。元からそのつもりです」
 椿の言葉に応えて、クリフが菜乃花の頭から手をどかし、代わりに菜乃花の手をそっと握る。それだけで、菜乃花は反射的に頬が熱くなるのを感じた。
 大きくて筋張った、男の子の手。これがクリフの手なのだ。去年の冬もこうして手を引いてもらったのに、どうして今まで気づかなかったのか。菜乃花の小さい手を包み込んで、頼もしく、温かい。
 そして代わりに、また菜乃花の頭をぽん、と軽く叩く人がいた。
 「それじゃあ任せたぞ、後輩。……久方、さっきの夢の話とか、色々あったことは龍巳にもちゃんと話せ。大事な奴にこそ、ちゃんと話しておかないと後から後悔することになる」
 これは先輩からのおせっかい(忠告)な、と隼人は少し悪戯っぽく笑った。
 「大事な奴に大事なことを黙っておかれるってのは、それなりに傷つくもんだ。話せることなら、龍巳のためでもあると思って勇気出せ。大丈夫だ、二人にはちゃんと、それが出来る絆があるよ」
 隼人は最後に「頑張れ」と菜乃花に耳打ちすると、菜乃花の頭から手を離して笑った。その笑顔は一つ二つしか年齢の違わない青年ではなく、酷く大人びて見える。
 「……菜乃花、行くぞ」
 「う、うん」
 ぐい、とクリフが控えめに手を引いたのを感じて、菜乃花は慌てて返事をした。

 ……菜乃花とクリフの間には、ちゃんと絆がある。

 クリフに手を引かれながら、菜乃花は心の中で隼人の言葉を反芻した。
 そうだといい。菜乃花だけではなく、クリフも菜乃花を想っていてくれると、そう己惚れられたらどれほど幸福だろう。

 菜乃花は祈るような気持ちで、クリフが繋いでくれた手をぎゅっと、少しだけ強く握りしめた。

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