2章【変わりゆくもの】
久方菜乃花・龍巳クリフ長編「アイネクライネ」
二月十三日。
正月や成人式と言った行事の慌ただしさや華やかさも薄らぎ、人々が日常にすっかり戻った頃。このイベントはやってくる。
カカオと砂糖の甘い香りに包まれた、自宅のキッチン。菜乃花はそこでチョコレート菓子作りに奮闘していた。
「だめ! ぜったいダメ!」
とはいえ、すでにチョコレート作りは最終盤を迎えている。先ほどまで主役だったチョコレートやココア色のケーキはテーブルに並べられ、名脇役を演じていたボウル、泡だて器などの器材は流し台でお休み中だ。
現在は最後の仕上げ──いわゆる、ラッピング工程の真っ最中だった。
「そんなに拒否しなくても。こっちのほうが絶対可愛いのに」
助手は菜乃花の大好きで尊敬するお母さん──こと、久方杏(ひさかた・あんず)だ。彼女はちょっとだけ困ったように笑いながら、両手に一本ずつリボンを持っている。
右手には大人っぽい、落ち着いた色のワインレッドのリボン。左手には爽やかな色の、スカイブルーのリボンだ。
「お母さんは赤い方がいいと思うなぁ。ハート柄だし」
「だ、だからだよ、その、ハートは……だって、特別なのでしょ」
「だからいいんじゃないの? 大事な人にあげるチョコレートでしょう。それだったら特別で間違ってないと思うけど」
杏はちらり、と菜乃花が大事そうに両手に抱えているチョコレートを見た。
透明な袋とカラフルなラッピングペーパーに包まれたチョコレートは、一見他のチョコレートと変わりはない。だが、母であり、本日のチョコレート作りの講師にして助手の杏にはわかる。
今、菜乃花が手にしているチョコレートは、作っている最中「一番上手に出来た」と喜んでいたものなのだ。出来上がったチョコレートを指先でつまんで眺めながら、表情を綻ばせているところだって見た。
「……食べてくれるかなあ」
そして、そんなことを呟いていたのだって、ちゃんと杏は気づいている。
そんなチョコレートが。ひいてはそんなチョコレートを渡したい、と想う相手が、娘の『特別』でなければ何なのか。
最近、朝いつもより鏡の前で髪の毛を気にする時間が長いとか。スマートフォンを片手にぼうっとしていることが多いとか。
母としては「おや」と思う場面はいくつもある。だが、さすがにこちらから「その理由」を言葉にするのはルール違反というものだろう。
「違わないけどっ、あげるのは、確かに大事な人だけど……でも、ち、違うの!」
しかし、当の娘の抵抗が激しい。杏は……こんなことを娘に対して、キッチンで思うのもどうかと思うが……どう料理したものか、と小さくため息をついた。
すると菜乃花はいたたまれなくなったのか、チョコレートを守るように抱えながら、少しだけ俯く。
「わ、わたし、今まで通りにお話ししたり、一緒にいれればそれでいいから」
「…………」
娘の言葉に、杏は少しだけ瞬きをして、何とも言えない気持ちで菜乃花を見つめ返した。
『今のままで、わたしは幸せ』
何年か前。まだ菜乃花が闘病のために入院していた頃を思い出す。
あの頃から菜乃花は、ことあるごとに笑顔で「今のままでいいよ」と繰り返していた。
──突然、娘に発覚した不治の病。そしてそれによる余命宣告は、久方家に暗い影を落とした。
杏も当然のことながら、そして夫である一槻(いつき)も、まず呆然とし、その理不尽に怒りを覚えることしかできなかった。
どうして菜乃花だったのか。どうしてわたしたちの娘だったのか。
聖人君子のようにとはいかなくても、人に顔向け出来ないような人生など、送ってこなかったはずだ。
ましてや、まだほんの子供の。たった数年、この世の中を生きただけの菜乃花に、なんの咎があったというのか。
そんなことを考えることに意味などなく、解決策にもならないとわかっていながら。けれど、杏も一槻も行き場のない怒りを収めることはできなかった。
しかし、そんな二人の怒りなど、菜乃花に降りかかった理不尽にとってはなんの障害にもならなかった。病は淡々と、まるで作業のように菜乃花の体力を、残りの人生の時間を奪い続ける。
そうして、理不尽に対する怒りはゆっくりと無力感と絶望へ変わっていった。
小学校は途中から。中学校は結局、一日も通わせてあげられなかった。
『勉強は看護師さんが教えてくれるし、いつでも質問だって出来るから、こっちのほうがお得かも』
だから大丈夫だよ、と菜乃花は笑った。
たまの外出許可も、もし容体が急変したら対処が出来ないからと、遠くへは連れて行ってあげられなかった。
家族で出かけた思い出と言えば近くの公園くらいのもので、たった一回、一番近所の水族館に行ったのが「旅行」と呼べる唯一の経験だった。
『公園楽しいよ? 水族館も凄かった。また行こうね』
二人が思わず躊躇った「また」を、菜乃花は笑顔で自分から口にした。
菜乃花が悲しい顔をするのは、杏たちが「ごめんね」と思わず呟いたときだけだった。
何かがほんの少し違っていれば。例えば二人の子供で生まれてこなければ。あと一年早く、あるいはあと一年遅く生まれていれば。何かが違えば普通の子供と同じように生まれて、生きて行けたのか。
何が悪かったのか。きっと何も悪くなかった。ただめぐりあわせが悪かった。そんな絶望的な事実だけがあり、それに耐えきれないときに思わず口をついて出る、意味のない謝罪と妄想。
『お母さん、お父さん。わたし、今のままでも凄く幸せだよ。ね、だからそんな顔しないで』
そんなとき、決まって菜乃花は少しだけ寂しそうに目を伏せたあと、柔らかく微笑んでそう言った。
わたしはこのままでいい。二人の子供で生まれてこなければ意味はなかったの、だからそれで幸せなんだよ。
菜乃花は治療の痛みにも、苦い薬にも、それによる行動制限にも、文句ひとつ言わなかった。少なくとも、二人の前では零さなかった。だから、杏が思い出す菜乃花の泣き顔はほんの幼いころのものばかりで、笑顔ばかりが記憶に残っている。
そんなことが、偶然起こるはずがない。必然なのだとしたら、菜乃花は努めて、両親の前で泣き顔も、苦しい顔も見せないようにしてきたのだ。
……死が避けられないのなら。せめて、二人の記憶に残る娘の表情が、笑顔であるように。いつも死を意識して、遺すことを考えてきた。
結果として、病は突然菜乃花の元を去り、杏の娘は理不尽から解放された。
しかし、長すぎる理不尽との同居は、菜乃花のほうから幸せに手を伸ばすことへの恐怖を覚えこませてしまったのだろう。
──わたしは、与えられたものに満足しておかなければいけない。
過ぎた幸福を求めたら、いつか、理不尽に空いた穴に落とされて、全て失ってしまう。きっとこの「幸運」に見放されてしまう。
一番初め、両親と菜乃花自身になんの咎もなくても、理不尽に襲われたあのときのように。
そんな直感的な焦燥を、きっと菜乃花は抱いている。ただの杞憂ではなく、れっきとした「経験」だからこそ、その恐れは簡単に拭い去ることは出来ない。
しかも、その理不尽を大人になってから体験した杏や一槻と違い、菜乃花は多感な時期に、誰よりも近くでその理不尽と共に過ごしたのだ。
「菜乃花が本当にそれでいいなら、お母さんはいいけど。でも──」
杏はそう言って、チョコレートを持つ菜乃花の手にそっと触れた。
菜乃花はきっと、「自分は置いていく側だ」と思っていただろう。実際、その通りだった。
菜乃花に面と向かって言うことはなくても、杏や一槻だって、ほんの数年前まで「菜乃花がいなくなったら」という未来を考えて生きていた。だから菜乃花も「未来に自分はいない」という前提で、遺せるものを探していたはずだ。
久方家にとって、「菜乃花の死」はもはや悲観や諦観ではなく──それを通り越した、熱も冷えもない「現実」の話だったのだ。
そこから目を逸らすことは、逃避だった。
「どんな気持ちも、一番強いのは『今、そのとき』だけだからね。後悔だけはしないように」
でも、もうそんなことはしなくていい。しなくてもよくなったのだ。
菜乃花は今までの理不尽から取り戻すように幸運を手に入れ、今を生きられるようになった。未来を想い手を伸ばすことは、今の菜乃花にとって現実逃避などではない、熱を帯びた幸福であるはずだ。
「誰かに遺すもの」としてしまっておいたものは、もう、「菜乃花自身のもの」にしたっていい。
いや、親からしてみれば、今まで諦めてきた分、ちょっとくらい強欲になったって構わないくらいだ。
『今のままでいい』なんて、寂しいことを言わないでほしい。死を待つように、欲を捨てていくのではなく。生を望んで、欲しいものに手を伸ばしてほしい。そうして、幸せになってほしい。
急に訪れた当たり前の幸福を、菜乃花は持て余してしまっているのかもしれない。だから、今すぐにそうなれとは言えない。
でも、少しずつでも望めるようになってほしい。
……「大事な人」への特別な贈り物なら、そのきっかけにちょうどいいのではないだろうか。
杏は淡く微笑んで、右手に持ったリボンをちょっとだけ揺らして見せた。
「絶対可愛いと思うんだけどな~、こっちのほうが。個別に渡すんだし、ちょっとくらい違ったってわからないわよ」
ツヤのある、ワインレッドのリボン。亜麻色の糸で細かいハート柄が刺繍されていて、品があるのに可愛らしい。チョコレート自体をハート形にするよりも、ハードルは低いはずだ。
菜乃花はしばらく「だめだよ」とか「うぅ」とか、情けない声で言っていたが、やがてそうっと、ワインレッドのリボンに手を伸ばしてきた。
「ほんとに、変に思われないかな?」
「思われない思われない。それに、どうせなら菜乃花も気に入るラッピングのほうがいいでしょう?」
ほら、と促すと、菜乃花はさすがに勇気が出たらしい。おずおずと袋にリボンをかけて、丁寧に結び始めた。
そうやって完成したチョコレートは、やはり杏の目から見ても可愛らしくて上出来だ。
「喜んでくれるといいな」
ぽつり、とつぶやいた菜乃花の言葉に、杏は思わず娘の肩に手をまわしてそっと抱きしめる。
「当然。だって、世界で一番可愛いわたしの娘が作ったんだから」
「お母さん、それは言い過ぎ!」
「言い過ぎなもんですか。きっとお父さんだって賛成するよ」
菜乃花の否定の言葉に、杏は大真面目でさらに否定し返した。親馬鹿だと言われようと、そこは譲れない。世界で一番愛しい人と結ばれて生まれた娘が、世界で一番可愛くなくて何だというのか。
それに、顔を真っ赤にして首を振る菜乃花は、親の欲目があるとはいえ、やはり可愛らしい年ごろの女の子に違いなかった。
* * *
翌朝、菜乃花はいつもよりも大荷物を抱えて、支部へと到着した。中身は昨日、母と作ったチョコレートたちだ。挨拶もそこそに、出会った順に友人たちへ笑顔でチョコレートを渡していく。
そうしてお喋りに興じつつ支部を歩き回り、やがて、訓練場近くでクリフの姿を見つけた。
「(クリフくん)」
その姿を視界に捉えると同時に、菜乃花の心臓が高鳴る。
赤い髪と精悍な顔立ち。それを視界のほんの端っこに映っただけでそうなるのだから、自分でもびっくりしてしまう。
「(だめだめ、いつも通り、いつも通りにしなきゃ)」
心の中でそう繰り返しながら、とりあえず深呼吸をして物陰に隠れる。
……去年は、何も臆さずクリフにも友チョコを渡していたはずだ。むしろ、去年のクリフは今よりずっと寂しそうで、人を寄せ付けない雰囲気をしていたのだ。今になって挙動不審になるなんておかしい。
「(ええと、去年はどうやって渡したんだっけ)」
……確か、何も考えずに笑って出て行って、「おはようクリフくん! チョコあるよー」なんて言っていたような気がする。そして強引に、何なら半ば押し付けるように、作って来たチョコレートを渡していた。
「(なんでそんなこと出来たのわたし!?)」
菜乃花は思わず頭を抱える。思い出しはしたが、困ったことに、今年同じことが出来る気はまるでしなかった。
とにかく去年の案はダメだ、じゃあどうしよう──
「菜乃花? 何してるんだ、こんなところで」
「ひうぅ!?」
──そのとき、クリフのほうが声をかけてきたものだから、考えていたことはすべてが吹き飛んでしまった。
反射的に振り返った菜乃花の目の前に、驚いた表情のクリフが立っている。
「悪い。そんなにびっくりするとは思わなかった」
「ぜっ、全然大丈夫! おはよう、クリフくん」
「おはよう。大荷物だな」
両腕にいくつもカバンを下げた菜乃花を見て、クリフが苦笑気味にそう言った。
「うん。今日、バレンタインだから」
ちょっと腕を持ち上げようとしたが、両腕が重くてあんまり上がらない。
……前髪、跳ねたりしてないかな。そんなことが急に気になって、菜乃花はクリフからちょっとだけ、俯くように視線を外した。
カバンの中には、昨日準備したチョコレートが入っている。母とあれこれ言いあいながら、結局少しだけ特別なリボンを巻いたチョコレートだ。
「あ、あのね、クリフくん、あの」
もう会っちゃったんだから、渡さないと。
いつも通り、去年通り、と、やはり頭の中でぐるぐると繰り返す。
しかし、やっぱり顔は熱くなるし、どうも踏ん切りがつかない。クリフが不思議そうに菜乃花を見ている気配だけはしているので、余計に焦る。
そうして思考と一緒に視線も彷徨わせていると、不意にクリフの手元に目が行った。
その手には、カラフルな包装紙でラッピングされた、小さな包みが握られている。しかも、よく見ると綺麗なリボンも巻かれていて、間に小さなメッセージカードまでついているではないか。
「クリフくん、それ……」
そして、ようやく気付いた。よく見るとクリフが持っているカバンの中身も、同じような大きさの包みが入っていることに。数にして、五、六個はあるだろうか。形までは全部見えないが、明らかにハート形っぽいものまで混ざっている。
さすがの菜乃花も色々と察した。……あれは全部クリフ宛てのチョコレートだ。
「ああ……バレンタインだからって、色々な。学校とかでも」
クリフはしばらく菜乃花を不思議そうに見ていたが、やがて菜乃花の視線の行く先に気づいたようだった。少しばつが悪そうに視線を逸らす。
やっぱり、と菜乃花は心の中で呟いた。
「そうなんだ……えっと、すごいね! クリフくん、やっぱり、人気あるんだねぇ」
変な沈黙が落ちてしまう前に、と、菜乃花はなんとか笑顔を作った。そうでなければ、心を蝕もうとするこの言い知れない動揺と寂しさを、誤魔化せそうになかった。
「そうか?」
「そうだよー! だって──」
動揺を抑えて、菜乃花は次の言葉を続けようとした。しかし、言葉は胸の奥の方で詰まって、出てこない。
──だって、クリフくんは世界で一番かっこいいし、強いし、優しいから。
「……えへへ、なんだっけ、何言おうとしたか、忘れちゃった」
「なんだそれ」
結局、奥の方で詰まった言葉は表に出せず、愛想笑いと小さな嘘で誤魔化した。
……その言葉を口にするのが、なんだか急に、勿体ないことのように思えたのだ。
「そういう行事だし、友チョコもあるだろ。別にチョコレートもらったからって、そいつと付き合うわけでもないし」
幸い、クリフは不思議そうに首を傾げたくらいで、それ以上追求はしてこない。そして続けられた言葉に、菜乃花は思わず顔を上げる。
「そうなの?」
「ああ。初めて話したようなやつもいたからな」
……そうなんだ。お付き合いするとかじゃないんだ。よかった。
クリフの言葉を聞いて、這い上がって来ていた寂しさが、すうっと引いていく気がした。
明らかにほっとした。胸の鼓動と痛みも和らいで、楽に息が出来るような気がする。
「(あれ、わたし……なんで今、ほっとしたの)」
クリフが「付き合う気はない」と言い切ってくれたことで、何をそんなに安心したのか。
その「どうして」を深く考えようとする前に、明らかにその場が騒がしくなった。
気が付くと、あれこれしているうちに結構時間が経っていたらしい。訓練の時間がもう間近で、今日の教官である椿が部屋に入ってくるところだった。
「あれ、誰だろう」
普段なら教官は一人だ。だが、今日は椿の後ろからもう一人、見覚えのない男性が入ってくるのが見える。どうやら、周りがざわついているのはそのせいらしい。
一瞬見えたのは、短く切りそろえた黒髪と、男性だろうな、というくらいだった。
「誰、あれ?」
「先輩が支部に帰って来たんだってさ」
「藤崎さんについて本部に行ってた、武闘派エージェントらしいよ」
「椿教官の同期だって。わー、かっこいいかも」
声のトーンを落としたひそひそ声から、そんなことを漏れ聞く。
椿の同期ということは、菜乃花やクリフにとっても先輩だ。「藤崎さん」というのが誰かはわからなかったが、武闘派ということは強いのだろう。
「先輩かあ。どんな人なんだろう。うー、よく見えない」
なんとかもう一度姿を見ようと、菜乃花は背伸びをしたり飛び跳ねたりするが、いかんせん背が低いため、全く見えなかった。仕方がないので、菜乃花は荷物を置いてから人だかりを回り込んで、一番端から顔を横に出す。
……そうすることで、ようやく「彼」の全貌を確認することが出来た。
さっき一瞬見た通り、短く切られた黒髪。服装は一応スーツだが、素材は動きやすそうなものだし、ネクタイも緩めだ。背は高く、中肉中背だが、いかにも前線に立っているエージェント、という体格をしている。
なるほど、あれが椿さんのお友達で、「武闘派」のエージェントなのか。そんなことを考えながら彼を見ていると、不意に、その彼と目が合った。
まさか菜乃花のほうを見るとは思わなかったので、少し驚く。
向こうも、菜乃花と目が合ってちょっと怪訝そうに目を見開いていた。瞳は黒曜石のような色をしていて、少しだけ眠そうというか、気だるげな印象を受ける。
「はい、騒がない。では今日も訓練を始めます。その前にこの人の紹介からね」
パン、と手を叩き、椿がチルドレンたちの注目を集めた。セミロングの黒髪を後ろに流し、背筋を伸ばして立つ椿は、「彼」の隣にしっくり収まっている感じがする。
なんとなくだが「同期」というよりも、もっと近しい関係性……例えばクリフと菜乃花のように、同じ場所に立っている人の雰囲気を感じた。
「彼は本部所属のエージェント、高崎隼人。私の同期で、あなたたちにとっては先輩よ」
椿がそう言って、隣に立つ「彼」──高崎隼人を促すように、肘で小突いた。隼人は面倒くさそうに椿を見つめ返すと、頭を掻いてから一歩前に出る。
「高崎隼人だ。しばらく支部に滞在するから、その間はよろしく」
「時間が空いたときは訓練場を使う可能性もあるから、怪しくても追い出したりしないでいいわ。トラブルがあったら私に知らせてくれれば対処します」
「おい、椿……」
酷くないか? と、隼人が椿を睨んだが、椿はどこ吹く風で無視していた。
「同期って言ってるけど、仲、悪いのか?」
「うーん、仲良しなんじゃないかなあ」
クリフが不思議そうに言った言葉に、菜乃花は小首をかしげてそっと否定を添える。
仲が悪くて言い合っている、というより、あれはあれでテンポが合っている気がした。椿にしても、厳しいのは言葉の内容だけで、雰囲気はむしろいつもより柔らかい。
「本当に怒ってたら、椿さんもっと怖いよ」
「…………それはそうかもな」
本当に怒ったときの椿を思い出し、菜乃花は思わず自分の腕を自分で抱きしめて震えあがった。クリフもそんな菜乃花の言葉に、ため息交じりで同意してくれたのだった。
* * *
そのまま始まった訓練は、特に何の問題なく終了した。
いくつか教官である椿にアドバイスを受け、帰り支度を整えたら、チルドレンやエージェントは順々に帰宅していく。
だが、今日はいつもより居残りが多いように思えた。例の高崎隼人がまだ訓練場に残っているからだろう。実際、彼の周りはちょっとした人だかりになっていた。しかし、嫌がるようなそぶりも見せず、彼は話しかけてくるチルドレンたちにも、親しげに対応しているように見える。
どうやら、いい先輩のようだ。ぼんやりとその光景を眺めながら、菜乃花はそんなことを考えていた。
「ね、クリフくん。本部って何か知ってる?」
「本部って言ったら、アメリカにあるUGN本部のことだろうな。俺たちがいるのは、UGNの日本支部。アメリカには、その大本があるんだ」
「UGNの、本社ってこと?」
「わかりやすく言えばそうだ」
「じゃあ、やっぱり凄い人なんだねえ……あ、また勝った」
目の前で模擬戦に興じているチルドレンたちは、数人がかりで隼人に立ち向かっていったが、簡単にいなされていた。戦い慣れているのだろう。自分も相手も怪我をしないように立ち回っているのがわかる。
本部に行っていた偉い人、というより、近所の気のいいお兄さん、という感じだ。
「武闘派、っていうから、強くて怖い人なのかと思ったけど……優しい人みたいだね」
後輩想いなところは、椿と同じらしい。
隼人は一見、椿とは正反対のタイプに思える。しかし二人並ぶと、なかなかどうして「いいコンビ」という感じがした。
同期ということは、小さい頃から椿と一緒だったのだろうか? そうでなくても、きっと長い間一緒だったのだろう。
「(大人になっても、ああやって隣に立ててるのって、いいなあ)」
そういう関係性も含めて、今の菜乃花は二人が少し羨ましい。
「確かに、強い人だな」
クリフもそう言って同意してくれた。ちょっとだけ声が沈んでいる気がするが、やはり訓練後だから疲れたのだろうか。
ちら、とクリフの方を見る。クリフもその切れ長の目で、隼人のほうを見ていた。だからちょっと安心して、クリフの横顔を盗み見る。
……クリフくんだって、わたしにとっては、隼人さんに負けないくらい、強くてかっこいいんだよ。
ふと、頭に言葉が浮かぶ。いつもなら考えるのと同時に言葉になっているはずだが、やはりとても口に出せなかった。代わりに頬が熱くなって、クリフから目を逸らしてしまう。
菜乃花は視線を逸らしたついでに、自分の手提げ袋に最後に残ったチョコレートを見た。
……訓練前に、渡しそびれてしまったチョコレート。このまま渡せなければ、きっと後悔することだけはわかっている。
『後悔だけはしないように』。昨日、そう言ってくれた母の言葉が蘇った。
「クリフくん。これ……今日バレンタインだからっ、どうぞ!」
菜乃花は深呼吸してからクリフの方へ向き直り、そう切り出す。最後に残った「特別」なチョコレートを差し出す。ワインレッドに亜麻色の刺繍が施されたリボンが、ふわりと揺れた。
クリフは突然のことに驚いたらしく、目を見開いて、差し出されたチョコレートと菜乃花を見比べていた。
「あ、あのね、クリフくん、もう今日はチョコレートいっぱい貰ってたし、食べきれないかもしれないけど」
心臓が痛いくらいに高鳴って、苦しいくらいだった。本当に、去年はどうやってあんなに、簡単に渡せたのだろう。怖いような気がして、とてもクリフの顔が見られない。
だが、苦しくても怖くても、もう一押し、一番大事な言葉を添える必要がある。
「でも、やっぱりわたしも渡したかったから……いつもありがとう」
どうにかその言葉を伝えて、ようやくクリフの顔を見上げた。そして、精一杯の笑顔を浮かべる。
クリフはしばらくチョコレートを見ていたが、やがて、意を決したように手を伸ばして、受け取ってくれた。口元を手で隠すように覆って、視線を逸らす。
「……サンキュな」
ぽつり、と囁かれた言葉に、菜乃花は胸が苦しくなるほど嬉しくなった。
受け取ってくれた。ありがとうって言ってくれた。それだけのことがとても嬉しくて、今日初めて、自然と笑顔が浮かぶのがわかる。
「うん! あっ、味はね、お母さんと一緒に作ったし、味見もちゃんとしたから、美味しいはず」
「手作りか。けっこう数あっただろ。よく作れるな」
「大変だけど、楽しいから大丈夫」
菜乃花はつい、嬉しさに任せて身を乗り出しながらそう話す。頑張って作ったチョコレートがクリフの手にあることを実感すると、ついつい浮かれてしまうのだ。
「あのね、クリフくんのは一番上手に出来たやつなんだよ!」
だからつい、言うつもりがなかったことまでぽろっとこぼしてしまった。言ってしまってから「しまった」と思ったが、もう飛び出してしまった言葉は取り消せない。
……でも、一生懸命作ったんだよって言う意味でもあるし、大丈夫だよね?
そんなことを考えながら、菜乃花はクリフの顔を見上げた。
「……そ、そうか……」
クリフはチョコレートの包みを手に持った体勢のまま、一瞬固まった。そして、再び口元を手で覆って少しだけ俯く。そして、所在なさげに視線を菜乃花から外し、唐突に立ち上がった。
「……悪い、ちょっと帰る前に、トイレ行ってくる」
「あっ、うん。待ってるね」
菜乃花に「ああ」と短く返事を返すと、クリフは踵を返して部屋を出て行ってしまった。菜乃花も小さく手を振って見送る。
クリフがいなくなってから、全てのチョコレートを渡し終わって空っぽになった手提げ袋を覗き込んだ。
「(あのチョコレート、帰ったら、食べてくれるのかな)」
一人になって気が緩んだせいか、じわじわと嬉しさがこみあげてきた。クリフとのやり取りがたとえ短くても、ほんの少しのことで心が嬉しさでいっぱいに満たされて、弾む。
そうして──勇気を出して結んだあのリボンをクリフの指が解き、チョコレートを食べてくれるところを想像してしまった。
……恥ずかしい。そんな想像をして嬉しくなる自分がなんだか、言葉にならないくらい恥ずかしかった。けれどそれすらも嬉しくて、楽しくて、この時間が終わるのが惜しくてたまらない。
「(嬉しいなぁ。次、プレゼント渡すとしたらいつかな。クリフくんの誕生日?)」
クリフの誕生日は春だ。もう少し先になってしまう。その頃、菜乃花とクリフは何をしているだろうか。ふと、そんなことを考える。
次の春には、クリフは社会人、菜乃花は大学生になっている。クリフは、菜乃花の知らない世界で暮らし始めるのだ。こうして時間が過ぎるごとに、ゆっくりとしかし確実に、二人の関係性は変わっていく。
あるいは──終わっていく、のかもしれない。
「……それは、嫌だなあ」
誰も聞いていないから、ぽつり、とそんな言葉が漏れた。
出会ったばかりの頃、クリフは誰とも深くかかわろうとはしていなかった。でも、今のクリフは雰囲気も柔らかくなって、菜乃花以外の人とも交流を持っている。
だから、クリフの良さを理解し始めた人だって、きっといるはずだ。事実、クリフが受け取ったチョコレートの数だけ、クリフを「大切」だとか「特別」だとか考えている女の子がすでにいる。
ああそうか、と。そこで、腑に落ちた。
「(わたし、もうクリフくんのこと、ひとり占め出来ないんだ)」
だから、急にクリフの魅力を口にすることが、勿体なく思えたのかもしれない。
クリフが本当は、クリフが強く優しい、素敵な男の子だということを知っているのは──菜乃花だけではない。これからはもっと、クリフの良さを知る人が増えていくはずだ。
クリフがこれから、誰と、どんな関係を築いていくかは、クリフにしか決められない。菜乃花があれこれと口出しが出来ることではないのだ。
だから「ひとり占めしたい」なんてことは、考えてはいけない──そう思うのに、ひとりでに「寂しい」と心が訴える。
だって二人の間には、何の約束も、保障もないから。
菜乃花にあるのは、神様に願った「ずっと一緒にいられますように」という一方的で、脆い願いだけだ。
命が、息をして時を過ごせば、それだけでいつか終わるように。それを、誰も止められず、また、止めてはいけないように。人と人との関係だって、いつか終わるときがくる。
「(なんで、それが寂しいの? 普通のことなのに……)」
きっとそれが、普通の……そう。「正しい」関係性の移り変わりなのだ。
反射的にそう考えたとき、菜乃花の心臓が痛いほどにどくん、と脈打った。
「っ……」
そしてまた、唐突に背後に「誰か」の気配を感じ、菜乃花ははじかれたように振り返る。その視界の端には、やはり、同い年くらいの少女のシルエットが映り込んだ。
『────』
陽炎のように、少女のシルエットが、揺らめきながら何かを菜乃花の耳元で囁く。
「あ……」
その言葉の意味を理解した瞬間、すぅっと、背筋が冷えた。
────うそつき。
静かな、しかし確かな怒りをはらんだその言葉。それは菜乃花の脳裏に焼き付いて、しばらく離れそうになかった。