まるで巡る季節のように
4月1日、菜乃花誕生日記念SSとして書きました!
現在執筆中のアイネクライネより少し未来の話。
クリフくんとお付き合いしている菜乃花のお話です。
何度でも春はやってくる。
使い古されたその言い回しの通り、当然に、当たり前に、春は再びやってきた。
四月一日。正月とはまた違う年の改め。
海外ではエイプリルフールとも言われる日だが、ハーフとは言え日本でしか暮らしたことのないクリフにはそれほど縁近い行事でもない。
それよりは、今さっきまで参加していたような━━入社式、入学式などと言った行事の方が、よほど馴染み深い行事だ。
まだ着慣れないスーツに若干の居心地の悪さを感じつつ、手にしたスマートフォンの画面に視線を落とす。
メッセージアプリには「もうすぐ着くよ!」の文字と、可愛らしい羊のイラストが駆けているアニメーションが表示されていた。
そして、クリフが微笑ましさに思わず表情を綻ばせたそのとき。
「クリフくん! おまたせー!」
小走りにかけてくる軽やかな足音と、直後、わりと勢いのいい衝撃を身体に感じた。
飛び込んでくるように抱きつかれたのだ、と即座に気づいて、思わず心臓が跳ね、気恥ずかしさが心を満たす。
「(落ち着け、俺)」
相手は小柄な少女であり、抱きつかれたからと言って倒れるような鍛え方もしていない。
彼女が自分にこう言ったスキンシップをしたがるのは日常茶飯事……驚くことに、付き合う前からだ……なのだから、取り乱すようなことではない。
「菜乃花、いきなり飛びつくな。危ないだろ」
「ええー? 大丈夫だよ、クリフくん強いもん。これくらいで倒れたりしないでしょ?」
「あと、人目があるから」
「……はぁい」
少女の名前を呼んで諭すと、菜乃花は渋々、と言う顔でクリフからそっと手と体を離した。
……抱きつかれた時にふわりと香った甘い香りのことは、あまり考えないようにする。話している間になんとか落ち着けた心が、また騒ぎ出しそうだからだ。
「……クリフくん、大人になっちゃった」
体を離し、今度は菜乃花がクリフを上から下までまじまじと見て、そう言った。
どうやら、スーツ姿のことを言っているらしい。
「お前、正月の時もそんなこと言ってたよな。別に、見た目以外はそんなに変わらないだろ」
「……うん。でも、すごくかっこいい」
菜乃花はクリフの答えに何か感じるところがあったようで、ちょっと目を見開いた後、嬉しそうに表情を綻ばせた。
さすがに、ここまで真っ直ぐに褒められると照れが先立つ。
「サンキュ」
なんとなく所在のなくなった手で、髪を触る仕草をしながらそう言うのが精一杯だった。
「私も、早くかっこいい大人になりたいなあ」
「そんなのすぐだろ。それこそ来年だ」
「うっ……受験、無事に終わったらね……」
受験、と言う言葉に、菜乃花の表情ががっくりと落ち込んだ。
菜乃花が目標とする大学に対して、実力テスト判定結果は現状あまり芳しくないと聞いた。
だが、クリフは菜乃花のひたむきさも、忍耐強さも、努力できる性質もよく知っている。実力テストの結果は結果とはいえ、まだ本番まで時間もある。本人ほど、悲観はしていない。
「そこは頑張れ。見ててやるから」
「……うん! ありがとう、クリフくん。わたし、クリフくんが見ててくれたらきっとまた頑張れると思う」
そう言うと、菜乃花は心から嬉しそうにまた笑った。
くるくると軽やかに変わる表情は、相変わらず愛らしい。
その表情を明るくさせるのが、自分の存在や言葉だと実感できると、余計にそう思う。
「あぁ、先にこれ言うべきだった。誕生日おめでとう、菜乃花」
「わあ、ありがとう、クリフくん!」
クリフが言うと、菜乃花はさらに表情を輝かせて満面の笑みを浮かべた。
「……で、本当に欲しいものとか、ないのか?」
四月一日。入社式や入学式などのイベントが多いこの日、二人が待ち合わせたのはこの理由からだ。
久方菜乃花の誕生日は、この春の節目なのである。
「去年はその。ロクにプレゼントも渡せなかったし」
「いいよ、そんなの! 去年はお友達になってすぐだったし。それに、プレゼントもちゃんともらったよ?」
「そんなの、じゃない。それに名前で呼ぶくらいのことで……あんなの数に入るかよ。俺がよくないんだ」
去年の誕生日。ちょうど一年前の今頃は、まだ二人はぎこちない関係性だった。
人を遠ざけようとしていたクリフと、そんなクリフにめげることなく、毎日話しかけ続ける菜乃花、という具合だ。
当然、クリフは菜乃花の誕生日を祝うどころの話ではなく、むしろ少しトラブルになりかけた。
菜乃花は気にしていないようだが、クリフの方は次があるなら今度こそ、きちんと祝いたいという気持ちがあったのだ。
菜乃花はきょとん、とした顔でクリフを見上げていたが、やがて考え込むように首を傾げる。
「でも、去年も今年も私が一番欲しいもの、クリフくんはちゃんとくれたんだよ。去年はほんとに、クリフくんが菜乃花って呼んでくれたのが一番嬉しかったの。それは本当だし……それに、今年ももうお願い聞いてくれたでしょ?」
菜乃花の言葉に嘘や強がりは確かに感じない。でも、相変わらず無欲なこの少女の考えに、クリフは少しもどかしさを感じてしまう。
「お願いって、今日会いたいってことだろ」
「うん。わたしは春休みだからいいけど、クリフくんは入社式だったし。でも、どうしても誕生日にクリフくんに会いたかったから」
ありがとう、ともう一度菜乃花は心から嬉しそうに微笑んで言った。
「プレゼントも嬉しいけど、わたしは今日生きて、クリフくんと会えること、名前を呼んでもらえることが本当に嬉しい。クリフくんが、わたしのことこれからも見ててくれるって約束してくれて……クリフくんがわたしの傍に、当たり前にいてくれることが一番嬉しいの。それで、今年も、来年も……こうやってお祝いしてくれることが」
年が変わっても、春が来ても、季節がいくつ変わっても。今まであったものがこれからもあるとは限らない。
だから、「今日」を、「これから」を約束して、叶えてもらえることが一番嬉しいと菜乃花は言う。
それは確かに美しい考えで、心映えのいい願いだと思う。
でも、やはりクリフにとってはまだもどかしい。菜乃花がもう少し何か望んでくれたら、と、エゴだとわかっていても思ってしまう。
……以前と違い、「今」だけでなく「これから」について望んでくれるようになったのは、この一年での成果なのだろうけれど。
「本当にお前は……もうちょっと色々望んだっていいんだぞ」
「うーん……じゃあ、ぎゅってして」
菜乃花はもう少しだけ考えるそぶりをしてから、少しだけいたずらっぽく笑んで、クリフに向かって手を伸ばしてきた。
「……それは……」
「手! 手をぎゅってするだけでもいいから! だって、他にクリフくんから欲しいもの、これくらいしか思いつかないんだよ」
クリフも、さすがに誕生日の願いを無碍にするようなことはするつもりもない。
「……わかった」
だが、思いを寄せる少女に触れるのを、さらりとこなすほどの慣れもない。
だから、ひととき心を落ち着けるために息を吸って吐いてを繰り返し、自分も手を伸ばして菜乃花の手のひらを包み込んだ。
その手は思った以上に小さく、こんなに細いのに柔らかで、不思議な感触だった。
思わず赤くなりそうな顔を気にしながら、菜乃花の様子を見やる。
菜乃花はご機嫌な顔をしていて、しかし、ほんのりと頬と耳元を赤く染めているのがわかった。
気恥ずかしくも嬉しいのは自分だけではないとわかって、クリフは少しだけ安堵する。
「クリフくんの手、おっきいなあ。やっぱり男の子だ」
「……菜乃花が手が小さいんだ」
菜乃花は「そうかなあ?」などと首を傾げていた。
「まだ時間大丈夫だろ。二人で、その辺歩くか」
少しだけ生まれた余裕のまま、クリフは菜乃花の手を少しだけ引いた。
……手を握ることが菜乃花にとって欲しいものなら、今日くらいは惜しみなく与えたい。
天秤の片方に乗るのが彼女の今日一日の幸福で、もう片方に乗るのが自分の気恥ずかしさなら、答えは考えるまでもないのだ。
だって今日は、菜乃花の誕生日なのだから。
菜乃花は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて、ぱっと表情を綻ばせて、もう一度手を握り直す。
「うん」
「途中、欲しいものが見つかったら言えよ」
「……うん、ありがとう、クリフくん。大好き」
すぐ隣でそんなことを言われ、心臓が俄かに騒ぎ出したが、クリフはなんとか平静を装う。
もしかすると四月一日という日は、クリフにとっては年に一度の試練の日になるのかも知れなかった。
……それでも、この日に菜乃花の傍にいない未来は、今もこれからも考えられないし、考えたくない。
今年も、来年も、当たり前に二人一緒にいること。
年が変わっても、季節が変わっても、当然に傍に在ること。
それが彼女の望む一番のプレゼントなら、今年も来年も与えてやりたい。
何度でも巡ってくる、この春のように来年も。